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令和己亥(2019) 元年 5月の記録 (新しい日付けの順)

令和 元年 5月31日 (金)

 曇り。なんとなく降りそうな気配もあったが、降らなかった。いや、午後、雨量計に出ないくらいちょと降った。
    最低気温 14.8℃ (11:16)、最高気温 18.3℃ (13:40)

 九州南部が梅雨に入ったそうだ、この天気図で梅雨入りをしたというのだからプロの判断はわからないものだ。ここは九州北部になるのでもう少し先になるのだろう、イメージ的には熊本は九州の南部のような気がするが地図を見ると確かに北の方だ。いずれにしてもこれからはあまりいい天気の日は無くなるのだろう。
 
 ついでに、なんだかちょっと嬉しいね、この世界地図? 全部九州で出来ている

 登校風景 (写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7写真8写真9

 先日話があった、薪材の積み込み、今日電話があったので午後から出かけた。電話を頂いたSさんは北坂梨の方だが、現場は牟田口だった。三台運んだが、二台は薪が小さかった、三台目はちょうどいい大きさの太さだった。ここのところずっと膝が痛くてそれでもなんとか自然治癒力が働いて大分良くなっていたが、今日重たい木を持ち上げたので、それがどう影響するだろうか。

 年を取ると駄目だなあ、覚えては忘れ、忘れては覚えるの繰り返し、自分でも感心するほど、翌日には見事に忘れている。調子のいい時はスイスイ聴き取れるけど、駄目な時はサッパリ、この繰り返しだ、それでも0.001ずつでも積み上がっていると信じている。
 「師」曰く、ゼロは幾ら重ねてもゼロだが、0.001でも1,000個積んだら1になる。

 晩飯 ブタ肉の味噌漬け、そのほかいろいろ。珍しくカミさんが飯前に帰ってきやがった。


令和 元年 5月30日 (木)

 晴れ。
     最低気温 9.6℃ (05:29)、最高気温 25.8℃ (14:21)

 登校風景  (写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7写真8

 川崎の子どもたちの通学時間帯に起きた凄惨な殺傷事件、周囲や国などがその対策で騒がしいが、本当に痛ましく気の毒なことだがこんな事故はどうやっても防げるものでは無いだろう、予測なんか絶対にできなだろう、誰がいつそんな凶行に及ぶなんかわからないだろう。小生が、毎日通学路に立って子どもたちの登校を見ていて、あまりダラダラ歩いたり、班の列が異常に間延びしたりすると、もっとさっさと歩きなさい!と言ったりしてなるべくまとまって登校するように注意しているのも、「集団登校」という方法が、そのほうが不測の事態が起きにくいだろうという考えの元に行われているものだからで、それが今回の事件のように、逆にたくさんの子供達が集まっている状態で起きているのをみると、集団登校のように固まっているが故に起きるということにもなりかねない。それに頼まれもしないのに毎朝立っている小生が突然豹変しないとも限らない、そんなこと自分自身だって誰だって絶対に保証なんか出来ないのだ、頼んでもいないのに毎日立っていて、あのオジサン(お爺さんか)、もしが変なことしたら困るわね、と言っている保護者が居ないとも限らない(居ないと思うけど)。今講じようとしている対策なんかそいうことやろとしているのだろう。先日、琵琶湖だったかで起きた交差点で保育園児にクルマが突っ込んだ事故、あれだって、あのあと、あそこに防護柵を作ったというニュースがあった、日本全国ゴマンとあるぞそんな交差点、どうするんだ、あれだって不幸な事故だが、だからと言ってすぐに防護柵を作るような性格のものでも無いだろう。
 
 4月は静かだったが、5月はドドッと固定資産税や自動車税、そのほかにもいろいろと支払わなければならないものがたくさんある、小生の年金は6月でないと入らないのだが、回らん、回らん、首が回らんぞ。。

 またUPSが警報を発した、調べてみると、これは定期的にセルフチェックをして、バッテリーの能力低下で交換しなさいという合図のようである。まだ緊急性は無いようだが、そのうちに交換しなければならないだろう。バッテリーは高いからなあ、最近は以前に比べて停電することが減っているようにも見えるし、もうやめようかなあ。と言いながら、やっぱり交換だな、まもなく大雨や台風のシーズンのやってくるし、近い内に安いやつを探そう。

 UPSのバッテリー劣化の次は、格安スマホ。最近、まだ半分近くバッテリー残量があるにもかかわらず、突然シャットダウンするようになった、いろいろ調べたらどうもバッテリーの劣化のようだ、UPSに続いて今度はスマホか。外付けのバッテリーがあるからしばらくはこれで凌ぐが、早速AliExpress宛に US$13.07で注文をしておいた、分解する必要があるが、日本円で1,300円くらいか、China製はとにかく安い、最近は品質もしっかりしてきた、難点は時間がかかることか、一月くらい覚悟しておいたほうが良さそうだ。

 面白い本を手に入れた、日本電信情報史「極秘電報に見る戦争と平和」。JA6DIotから聞いた電報の話がたくさん載った本である。DIotは終活でどんどん本などを処分しておいでだが、この本はやるとは言わなかったので、題名を聞かなかったが、確かこれだろうと思ってネットで探した所、古本として売っていた、安かった。日本の歴史的事件で膨大な電報が行き来していて、それが詳細に紹介されていて、ちょっと読んだだけだが非常に興味深い、これも和文モールを始めたからだ。

 それで、和文モールスの話の続きだが・・・日記が長くなりすぎる、今日はやめとこ。
 
 晩飯。煮込みハンバーグ


令和 元年 5月29日 (水)

 曇のち晴れ。
      最低気温 11.5℃ (05:29)、最高気温 25.9℃ (15:48)

 登校風景  (写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7

 太郎、水泳教室 進級テストで、一つ上がって11級になった、ライバルの泰増は飛び級で9級に上がったそうだ、太郎は競争心が無いのか全然悔しがらない、おい!悔しがれよ。(写真

 晩飯。カレー。

 時々ここに書いている「坂梨村是」(豊後街道「坂梨宿」の資料室にある)。この「是(ぜ)」という意味は方針という意味である、国是の「是」と同じである。鎖国が終わって急速に近代化を進めようとする貧しい日本を如何に富ませるかという明治政府の方針、「殖産興業」で、海外から先進技術を導入して積極的に工業化を進めようという勢力と、日本各地の一番裾野にある産業の基盤たる農業などの改革を積み上げて行くことによってそれを成し遂げようとする、つまり、今で言う「ふるさと創生」のような勢力とが対立して、提唱する施策が取り入れられなかった前田正名という官僚が下野をして、その後もこの運動を続けて、日本各地でまとめられた「是」のひとつがこの坂梨村是である。村是、郡是、県是などがあった。

 (今は別の製品が主力かもしれないが)ストッキングなどを作る「グンゼ」という会社がある、この「グンゼ」という言葉も本を正せば「郡是」から来ているのである。前田の考えに共鳴して作られた当時の主力産業の一つである養蚕業の「郡是製絲会社」が今のグンゼである。

 名前の由来にはこのように意外なものがある。

 「ウナコーワ」・・・・・昔、「カユイときにはウナコーワ」というキャッチコピーがあった。今もあるかもしれない、「即効性」のあるカユミ止めの薬である。この「ウナ」、これも由来が面白い、ここで和文モールスの話になる。

 昔、電報の種類に「ウナ電」というものがあった、普通の電報に対して郵便の速達のような至急電報のことである。「至急」という英語に「urgent」という単語があるが、この頭の方の「ur」をモールス信号にすると、「・・ー ・ー・」になるが、これは同じ符号でありながら、和文モールスでは「ウ ナ」にあたる。だから「至急電報」urgent telegramを「ウナ電」と言った。このスグ効くという意味を込めてウナコーワと名付けられたそうだ。小生が若い頃にはまだあったが、今はもうウナ電は無くなっている、今や電報はほとんどが慶弔電報でしか利用されない(一時期サラ金の取り立て催促によく使われた)。

 欧文モールスと和文モールスとでは同じ符号でありながら、その示す文字は全く違う、だから、長らく(ま、相対的なものだが)欧文をやっているので、和文モールスを耳にすると習慣的に欧文が頭に浮かぶ、ああ、これは和文なんだと頭に言い聞かせて和文で取ろうと頭を切り替えようとするが、駆け出し、まだそれが出来ず、なかなか苦労する。和文モールスを覚えようとする時に、よく欧文のモールス符号はもう知っているので、和文モールスはもうあと半分覚えたらいい、と書いている人がいるが、これは全くのウソである、下手に欧文が頭に染み付いているので、頭の中でその切替、区別が大変で、半分どころか倍も三倍もそれ以上に苦労する。


令和 元年 5月28日 (火)

 今日は静かな一日だった。午前中は時々細かな雨が降っていたが午後には上がり、それでも雲が垂れ込めていて晴れるでもなく、湿った空気が周りの音を包み込むかのように静まり返っていた。
       最低気温 16.8℃ (02:20)、最高気温 20.4℃ (08:25)

四十雀@横浜、朝のうちは卵が一個だけ残っているようで、大丈夫かなと思っていたら、午後にはどうやら無事に全部孵ったようだ

 登校風景 雨模様で、登校児童の数がいつもよりも少なかった。
    (写真1写真2写真3写真4写真5写真6

 今日午後、トランプ大統領は日本訪問の日程を終え、無事に羽田から帰国の途についた、日本滞在中、何事も起こらなくて本当に良かった、隣の国には寄らなかったのか、ちょっとでも寄ってくれと言っていたのはG20の時か。

 晩飯。小生が昼間時々食べている皿うどんを食べたいと言うので今晩は皿うどんだけ
 
 夜、太郎は虎舞の練習、坂梨公民館に送迎した。
 
 昨日の日本海海戦のことをもう少し詳しく書く。例の「本日天気晴朗ナレドモ・・・」の電文は、旗艦三笠から東京の大本営に送られた電信であるが、無線ではなくて有線の電信であった。その前に、仮装巡洋艦信濃丸が対馬海峡でバルチック艦隊を発見して、敵艦隊の発見報を三笠に(もう一艦を経由して)送ったのは、これは無線電信だった。その通報を受けて三笠では例の電文を作成して、三笠が停泊していた朝鮮半島の鎮海湾にある陸地の通信所まで一旦運んで、そこから海底ケーブルを使って東京まで打電したのである。
 この時代の無線電信機の技術では直接東京まで送ることは出来なかった。他方、この当時、既に大陸と日本は海底ケーブルでつながっていたのである。海底ケーブルは別にして、日露戦争が明治37年に始まったが、それよりはるか前、明治十年の役、つまり西南戦争では、すでに、電信は実用化され、政府軍は九州と東京と電信で情報のやりとりをしていた。西郷軍は始めから兵站とこの通信網で勝ち目は無かったのである。西南戦争の一年前に、熊本で不平士族が起こした「神風連の乱」というのがあったが、この時に熊本鎮台の司令官の種田少将が、襲われて殺された、同衾していたお妾さんの小勝さんという人は、すぐに東京の親戚に電報を打った、「ダンナワイケナイ ワタシハテキズ」(旦那はいけない、私は手傷)、この簡潔明瞭な電報が新聞に載って評判になって民間の電報普及に寄与したと言う。最近、西南戦争を題材にしたテレビドラマがあったが、電信のシーンなんかあったのだろうか、こんなことに興味を持つのは無線をやる人間だけだろう。
 
 すでにどこかに書いたかもしれない、明治35年の「坂梨村是」に坂梨村全体の家計支出について記録があって「通信費」という項目に、親書4,950通、端書(ハガキ)14,850通という記録が残っている。この時の坂梨村の人口は382戸2,227人とある。思った以上に郵便が利用されているが、それでいてここには「電報」が無い、当然もう電報はあったろうが、統計漏れなのか、坂梨からわざわざ電報を打つ人はいなかったのか、興味がある。
 


令和 元年 5月27日 (月)

 朝から雲が出ていて、風もちょっとあった、今日は天気が崩れるという予報だったが、いつもは予報より早く降り始めるが、今日は夜になってから降り始めたようだ。雨雲レーダーを見ると、ずっと九州の外側だけに雨雲がかかった状態が続いていた。
     最低気温 16.0℃ (05:38)、最高気温 22.0℃ (13:45)
 
 登校風景  (写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7写真8写真9写真10
 太郎はモンシロチョウの飼育箱を大事そうに持っていった(前日の日記参)。登校途中の子どもたちが盛んに上を見上げて振り払ったりしている、ユスリカの群れだ、子どもたちは「あたま虫」と言っている、言い得て妙であると思って調べたら、そのように言う地方もあるとある。

 子どもたちが登校している時に外輪の東端に薄っすらと黒い煙が上がっていたので、今どき野焼きをするのかなあと思ってとりあえずシャッターをおいた。家に帰ってからしばらく経ってから北坂梨で車両火災が発生したという防災メールが入っていたが、考えてみたら、外輪上も北坂梨域がある、我が家の先の北坂梨集落だったらサイレンなど何かしら火災の動きがあったと思うが、外輪上ではわからないはずだが通報の時間がちょっと違う気もする。その後鎮火報が入っていたが、車両火災でなくて建物火災とあった。高尾牧場が北坂梨だったが大丈夫だったろうか。

 皆が出掛けた後、一時間あまり昨日の続きの草刈りをした、燃料タンク一杯分使い切ったところで今日はヤメだ。元桶の燃料のストックが無くなっていた、作らねば。

 昼ころだったか、四十雀@横浜、巣を覗いたら一羽孵っていた、まだ一羽だけなのでエサをやったり温めたりで大変だろう、思っていたら夕方には二羽孵っていた、健気だねえ。

 晩飯。牛肉と野菜たっぷりの甘酢あんかけ

ホントウはこれから下が本日の主題
 世が世なれば今日は「海軍記念日」である、明治38年5月の今日、日本海海戦のあった日である。史上有名な「敵艦見ユトノ警報ニに接シ連合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の日である。
 
 予定ではここに小生が実際にこのモールス信号を打っている動画を載せるはずであった。それができなくなったので、とりあえずはPCソフトで作った音で、上記の無線電信音を載せることにした。上記の電文は、実際に送られた電文とは同じではない、実際の電文は暗号と平文が混じったものである。そして、実際にはこの電信はここに再現したような音響信号ではない、さらに「無線電信」ではない「有線電信」だった、このことは後日また日記ネタにする。(この音源(90秒)、興味がない人には面白くもなんともない、パスしされたい、そのうちに自ら打ったものと差し替えるつもり)。
 
 実は、小生がこの正月に「死ぬまでも一つプロジェクト」に選んだテーマがこの和文モールを極めることであった。今日の日記に小生が実際に打っているカッコいい動画を撮って載せようとしたが、録画をしないときはうまく打てるのにいざカメラを構えると何度も途中で間違って、どうしても全文完璧に打つことが出来ない、そうこうしているうちにJA6DIotが御入来、そして晩飯の支度となってとうとう今日収録ができなかった。

 昔から実際の和文モールスの交信を聞いていて、外国語ならいざしらず、日本語のやり取りなのに分からないのがシャクでなんとかマスターしたいと思っていたが、何年も、やりかけては挫折、というよりそこまで行かないうちにやめてしまっていた。アルファベットなら26文字?だがイロハは文字数が倍もあって48文字に符号を加えて50数文字。それと試験の制度が変わって、昔は和文ができなければ持てなかった資格が和文モールスの試験無しで取れるようになって、正直ずっとそれが負い目になっていた、和文試験抜きで取った資格はなんとなくポツダム進級のような気がしていたのである。

 小生、喜寿である、高齢者が一番衰えるのは記憶力と瞬発力であろう、特に条件反射的に耳に入った符号を頭の中で文字に置き換える、一番苦手なことである、それでも、なんとかマスターできた、ただ、何処がゴールというものではない、まだまだヒヨッコで、タタミ水練だ、実践には程遠い段階だ。それでも和文が分かるようになったというのは本当に嬉しい。
 
 たとえば欧文で無意識にGMを打ても、それはあくまでGMであって、決して日本語のオハヨウではないのだ、瞬時に頭の中で翻訳できても、good morningが既に日本語になっていても、それは決してオハヨウというニュアンスにはならないのだ、おはよう、おはようございます、オッハー、オハヨウござる、これ英文でどう打つ?やっぱりそれは和文だろう。

 今になって言う、モールス信号は欧文でも和文でも難しいと言うが、別に難しくなんか無い、ただ覚えればいいだけなのだから。物理学だとかナントカ学になると理解する「能力」が必要になってくるがモールスはそんなもの必要ない、ただ覚えればいいだけなのだから、誤解を恐れずに言うなら「頭」は必要ない、ただ覚えれば良いのだ、時間と根気さえあれば誰にでも出来る。

 短時間で覚えようとするからできないのだ、出来ないからすぐにやめてしまう、その繰り返し、やめたらゼロはいくら重ねてもゼロだ、しかし、たとえば0.001でも1000回重ねたら1になるのだ、まず覚えようという気持ちが一番、あとは少しずつ積み重ねていけばいいのだ。
 
 今、LINEやショートメールやツイッターなどで、短文を送受することが流行りだ、モールス通信、ある意味、今のコミュニケーション手段のまさにその元祖なのだ。

 どうして通信の元祖がモール通信なのか、それは日本海海戦時代の電信にまで遡る、このモールス通信の歴史と無線電信機の原理について、これがまた面白い。これから、和文モールと無線電信機の話で日記ネタがたくさんできた。



令和 元年 5月26日 (日)

 晴れ。北海道では開闢以来初めて、40℃近くまで気温が上がったそうだ、日本列島、北と南が逆転したようだ。ここは真夏目前で踏ん張っている。
     最低気温 15.2℃ (05:32)、最高気温 29.6℃ (14:13)

 太郎のクラスで班ごとにモンシロチョウを幼虫から飼って観察をしている、週末は班員が交替で家に持ち帰り管理をするようになっていて、今週は太郎が当番で持って帰ってきた幼虫の一匹が今朝、蛹から蝶になっていたのを気がついて、家の庭に放してやった。まだ気温が低かったので近くの枝に止まってじっとしていた、日が昇ってから何処かに飛んでいったのだろう。太郎のやつは(夏子もだが)虫が苦手て、モンシロチョウでも放す時に腰が引けている。田舎で暮らしていてどうしてこうなんだろう、カメムシまで可愛がる宮崎方面の爪の垢でももらってきたいくらいだ。

 太郎のテニスレッスン日、今日は夏子も一緒に行った。試験中だろう?というと、もう終わったとのことだった。小生は朝7時半頃から朝食の時間を挟んで昼過ぎまで、ひたすら草刈りをした、燃料を3.5タンク使った、まだかなり刈残っている。今日もかなり気温が上がったようだが、まだ真夏と違って直射日光は強くないので、また湿度が低いので汗はかいたが我慢出来ないほどの暑さではなかった、水分の補給もあまりしないで済んだ。今日の草刈りは薪材の運び場所の整備のためである。
before   after
 
 昨日だったか、北坂梨のSさんとおっしゃる方が訪ねておいでになって、木を切るけどご入用ようか?とのことだった、小生が薪が欲しいのが近郷近在に知れ渡っているようで、こうやって話がくるのが有り難い。今回は結構な量になりそうなので、草だらけだと足場が悪いので取り急ぎ木を落とす場所周辺の草を刈っておいたというわけである。

 夕方、風呂に行った時にアゼリアのロビーのテレビで大相撲の表彰式をやっていてトランプ大統領が大統領杯を授与していたが、アメリカの現役大統領の観戦、おそらく最初で最後だろう、平幕優勝力士の朝乃山・・・だったか、一生の思い出になったことだろう。



令和 元年 5月25日 (土)

 晴れ。 (写真1写真2)
 隣の竹田市で35℃を記録して全国一の暑さだったそうだ、ここから大して距離があるわけでもなしと思って、日記を書く段になって記録を見るとここも30℃近くまで上がっていた。湿度が低くいうえにまだ大地そのものが暖まっていないせいか、実感としてはそんな感じはなく過ごしやすかった、もっとも今日は半袖でいたが。
     最低気温 12.5℃ (05:22)、最高気温 29.7℃ (15:04)
 
 午後3時半近くに千葉方面で震度5弱の地震があったが、そのあとすぐにトランプ大統領がやって来たのだろう、地震に慣れていないので、地震心配だろう、千葉でゴルフの予定もあるとか聞いているが、やめようか、なんてことにならないだろうか。

 登校風景  (写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7写真8写真9写真10
 今日は土曜授業の日で通常通りの登校日だった。小生が立っている場所から田んぼ越えの一番遠いところの様子がちょっとオカシイ、皆が立ち止まって何かをしているようだった。しばらくしてやってきた子たちに訊いたら、道に履物が落ちていたのでどうしたのかと思っていたら、オートバイに乗った裸足のおばさんが行ったり来たりしていたので、どうもその履物はおばさんのものだったようで、その事がわかるまでちょっと時間がかかったということだった。どうして履いていた履物が落ちたんだろうね、と小生が言ったら、そうじゃないよ、裸足で田んぼに入ったあと、オートバイの後ろに履物を乗せて帰る途中に落としたのバイという、納得行く説明、そうだったのか。
 
 そして、今日は災害時の保護者による緊急引取訓練があり、カミさんが午前中で授業あ終わった太郎を引き取ってそのまま、山を下りていった。定期通院の慢性化している副鼻腔炎の薬をもらいに行ったのである。受診にあたって予約のために、太郎が土曜授業の間に、カミさん一旦山を下りて受付を済ませて、取って返して、太郎を引き取ってそのまま、また山を下りて、夕方帰ってきた(途中で美容院に寄ったそうだ)。
 
 山を降りる際には夏子も一緒に三人ででかけていった。夏子はその前に小生と一緒に南阿蘇に馬の世話に行って、終わって帰ってきてからちょうどその時間に間に合った。

 オープンセサミ  (写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7写真8写真9写真10写真11写真12写真13写真14写真15

 山を映しているライブカメラのモニター画面が曇って何かモヤモヤ動いている、なんだろうと思って見に行くと、細かなクモがハウジングのガラスいっぱいに巣を張ってびっしりたかっていた。ケースの中で孵ったのだろうか、箒の先でそっとすくって、支障のない場所に移してやった。ものすごい数だがこのうちどのくらいの数のクモが生き残って大きくなるのだろうか、最近小生はクモに優しくなったのである。



令和 元年 5月24日 (金)

 晴れ。沖縄地方は確か梅雨入りしたはずだが、その梅雨前線が全く見当たらい、消えたのだろうか。日本列島各地で真夏日になったそうだ、当地も夏日になったようだが、湿度が低いので全く暑さは感じなかった。 (写真1写真2写真3写真4)
   最低気温 11.1℃ (05:49)、最高気温 26.5℃ (15:56)

 登校風景 (写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7写真8写真9写真10写真11写真12写真13写真14写真15

 午前中、建屋周り360℃ 草刈りをした。屋外作業ながら全く暑さは感じなかった。(写真1写真2

 晩飯。がめ煮(筑前煮)を作った、それから、ブタ肉の味噌漬けなどなど。

 日本人の氏名の英語表記が姓・名の順番になりそうだ。随分前に国の方針として決まっていながら、名前が先という旧来の方法でズルズル来てしまったようだが、今回は結構本気でそうなりそうな気配だ。小生なんか昔からオカシイとおもっているので、何か方法はないものかと思って以前調べたことがある。その時に、姓を全部大文字で、名の最初だけ大文字にして以下小文字にするという方法があると知って、爾来小生はそれを押し通している、名刺にも、SONO** Kaz****としてある、もっともこの英語表記の名刺が役立つシーンは全く無い。テニス全仏オープンではそういうふうに表示されている。。


令和 元年 5月23日 (木)

 晴れ、風もなく穏やかな日だった。今朝も朝のうちヒンヤリしていた。(写真1写真2)
    最低気温 8.9℃ (05:39)、最高気温 24.4℃ (14:40)

 登校風景  (写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7写真8写真9写真10

 オマケ 下校風景
 小生が買い出しから帰る途中、通学路を通りかかると、今日は一年生だけの下校日のようで上級生は一緒ではなかった。見ると坂梨方面に帰る子が四人いた。あっちにふらりこっちにふらり、不審者が出たので子どもたちの防犯ブザーのチェックと携行忘れが無いようにと学校からメールが届いたばかりで、当然今日学校でも直接子どもたちに注意がされたはずなのに、彼らはそんなこと全く頓着しない、さすが堂々の一年生だ。入学以来まだ一月しか経っていないのにもう完全に自分たちの世界を確立。寄り道しないで真っ直ぐ帰るんだぞとちょっと注意したら、ハイ!という端からまたフラリフラリ、気候はいいし、上級生はいないし、自分たちの天下だ。まあ、大丈夫なことはわかっていたけど、サービスだ、といつものところに車を停めてしばらく帰る様子を目で追っていた。今は、ちょうど田植えシーズンで、道路脇の用水路(と言っても小さなやつだが)を水が流れてるので、草で作った船などを流して、行ったに来たり、遊ぶ材料はいくらでもある、誰でもそうだったからなあと姿がかなり遠くまで行くまで見送って帰ってきた。
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 10時から就業改善センター会議室で阿蘇文化調査研究会の例会。阿蘇の七鼻八石について、いろいろな説があるが、それをメインに鷲の石地区の長老の井野則男氏を招いて阿蘇の伝承や歴史の講話をお聴きしたり意見交換があったり
 
 夏子は今日から定期試験だそうで午前中で終わって帰ってきた。

 晩飯。キジ焼き丼など


令和 元年 5月22日 (水)

 晴れ。今朝、子どもたちの見守りに出たときにはちょっと肌寒いくらいだった。
       最低気温 7.7℃ (05:07)、最高気温 22.7℃ (14:47)

 登校風景 (写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7写真8写真9

 九州新幹線整備について長崎ルートの佐賀県を通る部分で揉めている。普通、県や市など自治体の長は新幹線を通したい立場だろうと思うが、ここでは反対多数のようだ。理由に費用負担の問題があるが、それと併せて地元の日常生活への影響がある。終点の長崎は最後にやってきてくれるところだから早く来てくれるのには賛成でそれが悲願だろうが、途中の佐賀は結局は通過駅になってしまう、そして、新幹線ができると在来線は廃線や減便などで当然しわ寄せが来る。いままでも新幹線が通ったところの在来線は見るも無残なことになっている。JRは新幹線でたくさんの乗客を運んで儲ければいいだけで、利益優先、通過する地元のことなど知ったことではない、ただ儲ければいいだけだ。JRが地元民の足であるという自覚も社会的な責任もとうの昔に無くしている、佐賀県民よ、JRに騙されるなよ。オイ、f-JR九州よ、大津~阿蘇間の代替バスを走らせろ!

 今日は・・・・今の時点で日記に書くことは特に無い・・・・・な。
 
 太郎、水泳教室。
 
 晩飯。鰹たたきなどなど


令和 元年 5月21日 (火)

 昨日までの天気がウソのような実に爽快な青空になった、一方、関東方面ではここから移動していった雨雲が列島に沿うようにして大雨を降らせていた。(写真1写真2写真3)
      最低気温 10.5℃ (04:28)、最高気温 21.4℃ (12:33)

 登校風景 今朝も6年生は修学旅行の振替休日で姿はなかった。
   (写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7

 朝早々に一中の運動会は予定通り実施の放送が流れていた、グランドコンディションは大丈夫だろうかと心配だったが、多分水はけの良いグランドなのだろう、田植えが最盛期の田んぼを渡って時々運動会の音楽がここまで流れていた。午後になって、買い出しに出た時に側を通ったら、楽しそうに歓声が上がっていた

 小生本日満76歳になった。喜寿なんだそうだ、ちょっと違うかもしれないが「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」という気分だ、この俺がなあ、全く実感がない。還暦は満年齢でいくが、その他のいわゆる長寿祝いは「数え」でいくらしい。

 歳を取ったという自覚がないから時々ちぐはぐなことが起きる。郷土のちょっと昔の歴史を調べるために、地元の長老になるひとたちに昔のことを尋ねようとするが、どうも期待するほどの応えが帰って来ない、考えてみたら、長老と言っても小生とはそんなに歳は離れていない、小生がガキの頃にそのひとたちもガキにちょっと毛が生えたくらいの年齢だったのだ、もうそういうことなのだ。
 
 「坂梨村是」に坂梨村の住民の家計支出の統計がある、そのなかに通信費というのがあって、親書と端書(ハガキ)についての通数が書いてある。村の世帯数からみると結構多い量だ。が、しかし、そこには電報の記録がないので、あの時代にはもう電報が普及しているはずなので(このことは後日改めて書くつもり)、調査漏れか、誰も利用しなかったのかどちらかだろうと思って、それほど昔ではないが、参考になるかなと思って今の坂梨郵便局の歴史を知りたくなって、前郵便局長がお風呂仲間なので、ある時に、風呂に浸かりながら尋ねてみた。
 
 小生が子供の頃、宮地駅から歩いて、今のここの祖母の家を尋ねる時にあった建屋は場所を移動して今の場所にあるが、小生が子供の頃、電話がまだ今ほど普及しておらず、遠隔地とはごくあたりまえに電報でやりとりをしていた、小生の親戚が郵便局をしていたので、伯母が窓口で受け付けた頼信紙を電話口で本局に朝日のア、イロハのイ方式で流れるように電文を送っていた思い出があるが、坂梨郵便局ではどうでしたかと尋ねたら、私が郵便局長になった頃にはもうテレックスのようなもので送っていたので、電話口で口頭で送ることはやっていませんでしたとのことだった。
 
 そうか、そうなんだなあ、お互いにそういう年齢関係だったのだ。ということは小生ももう十分に長老の域に達しつつあるのだが自覚が伴わない。それでいて体の方は確実に老化しているのだろう、二三ヶ月前から左膝が痛い、我慢できないほどではないので、そのうちに治るかなあと思っているがなかなか治りそうもない。

 これも年齢差の「いびつ」の話にも関わるが、横浜の小生の従姉の孫の大学生の駿が獣医系の大学に行っていて、夏休み中に課題で畜産農家で実習をしなければならず、この3月に遊びに来た時に阿蘇が気に入ったようで、阿蘇でその実習先を探してほしいという依頼があった。
 
 駿、普通で言えば、年齢的に夏子と同じくらいなので、イトコの「子」なんだろうが、小生がイレギュラーなので、従姉の「孫」なのである。この関係を難しく言うと「従姪孫(ジュウテッソン)」ということになる、そして駿から見ると小生は「従叔祖父(ジュウシュクソフ いとこ大おじ」と言うらしい。 
 
 近辺に何軒か畜産農家があって一通りの面識はあるがそれ以上の関係がないのでどうしたものかと思っていた所、ここから2キロほど奥に入った三野のIさんのお宅が畜産農家で、中学校時代、夏子と同学年の友達がいて、かつ、中学校の農業体験で受け入れていただいたことがあるから、頼んでみたら?というので、ただそれだけの理由でお願いをした所、応じていただけることになって、先日は電話だけだったので、今朝、こどもたちの登校見守りが終わった足で、駿が送ってきた履歴書などを持ってお願いに行ってきた。
 
 最近の履歴書の書式は小生時代と全く違っていて、家族の欄や親の職業の欄なんか全く無い、差別防止や個人情報保護が理由だとか聞いた気がするが、これじゃあ、会社なんかで採用の判断をするのが大変だろうなと思ってしまう。極めて自然な普通の疑問なのに家族は?兄弟は?親は何をしているの?すらも駄目な今の時代、逆に窮屈さを覚えてしまう。今日はそれだけでは先方がわからないだろうと、小生が作った我が家との関係などを記した補足的な書類も一緒に持参して、一週間あまり、みっちりコキ使ってくださいとお願いして帰ってきた。 
 
 現在、お子さんたちは阿蘇を離れていて、普段、二十数頭の牛の世話はご当主と母上のお二人でされておいでだそうだが、今は農繁期で別世帯の弟さんも手伝っておいでだった。同じ年齢のお嬢さんがいながらこちらのご当主は遥かにお若い、実に穏やかそうなご家族だなあというのが第一印象だった。安心して実習をお願いできそうなお宅だという感想を持って帰ってきた。だいたいこのような実習は住み込みができたらいいのだろうが、状況から、我が家からの「通い」になるのだろう。
 
 一般にはこういったことは実習する者と受け入れ側との二者の間の関係になるが、今回は更に間に小生が入ったので、実習先の決定や交渉は楽かもしれないが、駿は先方に対してだけでなく、親戚の小生の顔に泥を塗るようなこともできないという二重の責を負うことになるのだから、その覚悟を持って来なければならなくなったということだ、これ読んでるか?


 晩飯、トンカツとポテトサラダを作る。朝、お赤飯を炊いてくれたが、炊きすぎて、今晩もまた赤飯だった。小生の誕生祝いの晩餐にすると、カミさんが早く帰ってきて、たとえ早く帰ってきてもそれから料理ではとても間に合わないので、小生がいつものように普通に作ることにした。ケーキだけは頼んでくれていたので取りに行ってきた。夕食が終わって、ケーキでも食べようかというころカミさんが帰ってきて一応ローソクふうーをしろというので実行行為は太郎に任せて小生は横にいるだけで済ませた。


令和 元年 5月20日 (月)

 朝の天気を見て(写真1写真2)、さあ今日あたりからそろそろ天気が回復するだろうと思っていた所、午後になってまた結構強い雨が降り始めて夕方までずっと降っていた。明日の天気予報は晴れマークだが、これだけ降ったら明日までに運動会のグランドは乾かないだろう。
        最低気温 17.7℃ (但し 20:18現在)、最高気温 24.7℃ (12:29)

 登校風景  昨日から一泊で6年生は修学旅行で不在のため、子供の数がちょと少なかった。修学旅行は何処だろう長崎だろうか。夕方には無事に帰ってきたと学校からのメールで知らせてきた。
   (写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7写真8写真9写真10

 ここにきて世上、急に現金決済からスマホ決済にという動きが盛んである、いわゆるキャッシュレスのことだが現金主義の小生にはあまり縁がないことだが、それでも一つくらいはと、最近、スマホ決済で「ゆうちょPay」というシステムが出来たということなので、「ゆうちょ銀行」をよく使うので、アプリを入れて登録手続きをしようとしたが、これがなかなか面倒で手続きの途中で何度か間違ってしまって、その後、ニッチモサッチモいかなくなってしまった、エイ面倒くさい、ヤメだ!

 ということで少し放っておいたが、最終的になんとか登録が完了した、問題は原資だ、泉のごとく湧き出てくれるシステムはないものか。

 晩飯。餃子など



令和 元年 5月19日 (日)

 朝のうち、なんとなくこのまま上がるかなあと思っていたらその後もまた雨になって結局終日降っていた。九州の南の方、特に屋久島あたりが最近度々耳にする「50年」に一度という豪雨になっているようだ(数年前の阿蘇の時は1,000年に一度だったなあ)。梅雨前線が沖縄付近に横たわっていて、この前線がいつ北上するかでここも梅雨入りするのだろうが、この先またしばらくは雨が降らないようだから、九州北部地方の梅雨入りはもう少し先になるのだろう。
 
 今日予定されていた一の宮中学校の運動会も雨で火曜日に延期された。明日も天気はよく無さそうだが、火曜日あたりから回復しそうだ。平日開催になると、保護者がの参観が少なくなってちょっと可哀想だ、どうせ延ばすのなら土曜日あたりにすればいいのにと思うが、教育委員会あたりが駄目だと言うのだろう。
 
 今日も朝早くから太郎と母親は熊本市までテニスのレッスンに出かけていった、そして珍しく夕方には帰ってきた。夏子は定期試験があるので、おとなしく勉強をしていた(ようだ)。

 気象観測装置が17日の夜から止まっていたのに気が付かなかった、昨日の記録は17日の記録を重複して計上したので取り消した。
 本日 最低気温 16.8℃ (00:00)、最高気温 20.1℃ (13:37)


令和 元年 5月18日 (土)

 ほとんど終日弱い雨が降っていた、風もあった、寒くはなかったがアゼリアの風呂の温かさが気持ちが良かった。
       最低気温 15.4℃ (00:00)、最高気温 22.8℃ (12:48)

 朝早く、太郎と母親は先週の日曜日(今週か?英語で言えばlast sundayになるのだが)の虎舞で潰れたテニスのレッスンに出かけて行った(今日は前の分で、明日もまた行くらしい)、そして、一旦10時ころ戻ってきて、今度は夏子を乗せて三人でまた山を下っていった。今日は夏子のピアノレッスン日でもある。時間が空くのでそうなったのだが、カミさんは平気で熊本まで行き来する、ちょっと近くのスーパーまで、が、ついでに下までということも大げさではない。以前熊本まで毎日通勤していたからかもしれないが、まあ、小生に比べたら若さの違いだろう、小生はもう阿蘇谷から外に出るのも億劫だ。

 今日は週例の馬の世話に行ってきた。雨が降っていたので、ぬかるんだ地面にエサを落とさない工夫をして、餌やりをしてきた。雨だったので写真も撮らなかった。

 そんなに強い降りでは無かったのだが、なんとなくタイミングを逸してボンの散歩をしなかった、ボン自身、最近とみに老化が進んでいて、散歩を催促するでもなく小屋の中で寝てばかりいる。老化の証としては、目の前におやつのジャーキーを投げてやっても、一発で口で受けられなくなって、しかも落としたジャーキーが目の前にあるにもかかわらずさかんに鼻先を周囲に動かして回って探している。嗅覚も衰えているようだ。それに以前は家の中から注意を引くように音を立てると、正確にその方を見ていたが、それもできなくなって見当違いの方向に目をやている、聴力も衰えているということだろう。
 

令和 元年 5月17日 (金)

 天気下り坂。朝から時々風に混じって細かな雨が落ちるようでもあった、降っていないと言えば降っていないとも言える、そんなほんの僅かな水滴が時々落ちてきた。
       最低気温 15.4℃ (00:00)、最高気温 22.8℃ (12:48)

登校風景 (写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7写真8写真9写真10

 登校見守りの時に、猛禽類、鳶だろうか、鷹だろうか・・・自動シャッターでピントが合って撮れていたので載せた、ただそれだけである。(写真1写真2写真3
 
 一方で、横浜の四十雀、順調に抱卵を始めているようだ、卵は9個くらいある。誰に教わったということではないのに、卵を生んでそれを温めて、時々、卵の位置を調整している、なんとも神秘的である。
 

 午前中、小一時間ほど、表通りの草を刈る。基本は秋になれば枯れる、だが、それでも、表通りだから、少しは綺麗にしておかなくては。もう大分になるが、ヒゴタイの種を蒔いたが、果たして出てきているのは雑草なのか、ヒゴタイの双葉なのか、よくわからないが、多分雑草のような気がする。

 草刈りが終わって、戻って、胸のポケットに入れておいたスマホを取り出すと普段見ている画面と違う画面が・・・

 何が何だかわからない、今まで入れていたアプリは全く見当たらない。想像するに、そう言えば、刈払機のエンジンを切った時に、強烈にパチパチという音がした。もしかしたらそのスパークがスマホのカードに強烈なジャミングになってデーターを全部消して初期化してしまったのかもしれない。まだ現在のように発信回路の技術が無かった昔、そもそもの無線の元祖ともいえる電波(搬送波)はこのスパークプラグと同じ原理を利用したものだったのだから。
 
 それでもSIM機能は生きていたので、とりあえず最低限の機能は復旧させることができた、それもしばらく経ってからだ、それまで一瞬何のことだかわからずにオタオタした。そして、復旧させてからしみじみ考えてみた、小生、スマホが無くて困ることってあるのだろうかと。本当に必要なのは、メールとLINEくらいなものだ。それらだって基本的には固定PCに入っているので、スマホのアプリが突然全部消えてしまったとしてもなにもそんなに慌てることもなかったのだ。そして、今回のようなアクシデントから、ガラケーとスマホの二台持ちをしていて良かったと思った、電話番号もほとんど全部ガラケーに入っていたから。とりあず、メールとLINEは復旧したが、本当の所まだなんだかよくわからない。初期化された画面に表示された APP Permission manegement is closed って一体何なのだ。

 後からわかったが、WiFi下では復旧したが、公衆回線ではまだつながらない、SIMの設定から白紙に戻っているので、この設定をしなければならないが、こんなもの買った時に一度やっただけだから、なかなかうまくいかない。
 
 晩飯。チキンカツ。トンカツも旨いけどチキンカツも旨いなあ、筋切りをしなくて済むだけ、トンカツに比べて作りやすい。



令和 元年 5月16日 (木)

 晴れ。今日は夏日になったようだ、外に出ないので実感がわかなかった。
 今日の阿蘇山  (写真1写真2写真3
      最低気温 12.2℃ (05:39)、最高気温 25.1℃ (15:01)

 登校風景 (写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7写真8写真9写真10

 PC作業中突然電源が落ちた。みると、UPSが消えている、あれ?と思って家のブレーカーを見たが、落ちていない。もし停電ならUPSからアラーム音がするが、それが無い上にUPSの小さなパイロットランプは点いている。

 よくわからないまま、UPSを再起動かけて復旧して、何かの拍子落ちたのかなと思って、作業を続けていたら、また落ちた。作業をしているPCに一時的に過電流でも流れたのだろうか、とりあえず、そのPCの電源は他から取って、UPSを再起動してその後は問題なく動いているが、そもそもUPS全体にそれほど大きな負荷をかけていないのにどうしてだろうか、それに、停電ではないので、外部電源でそのまま動かせばいいのだから何もUPSをシャットダウンすることも無いだろうに。この作業をしているPCは一応小生の旗艦PCなのだが、困ったものだ。別電源から取った旗艦PCはその後問題なく動いているので、多分UPSの何処かがオカシイのだろう。

 馬場八幡にボンの狂犬病予防注射を受けに行ってきた。毎年この時期、市内の各地域を細かく分けて、市の担当者と獣医さんが巡回をして注射をして回る。注射を受ける犬と受けない犬の割合はどんなものだろう、小生は万一のことを考えて必ず受けるようにしている。日本ではもう長い間、狂犬病は発生していないが、最近は海外からペットなどが入ってきて、そのペットが感染している場合があるので、日本では安全だとは言い切れないということだ。他の犬はほとんどおとなしく注射を受けるが、ボンは全身で抵抗する、飼い主であろうと噛み付いてくるので、毎年、首が動かないように固定して、後ろに回って後ろ脚を引っ張って、体が伸び切った状態にして動けないようにして打ってもらう。今年も無事に注射が終わった

 晩飯。麻婆豆腐、エビチリなど。熊本ではスイカは今が旬である、このあとスイカ前線はどんどん北上して、真夏の本当にスイカを食べたい時期は、ここでは北海道産あたりだったろうかずいぶんと北の方のスイカが店頭に並ぶことになる。


令和 元年 5月15日 (水)

 朝のうちはちょっと曇って肌寒かったがその後晴れる。今日も阿蘇中岳は活発に噴煙を上げていた。(写真1写真2写真3
       最低気温 13.6℃ (01:44)、最高気温 24.4℃ (15:19)

 登校風景 (写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7写真8写真9写真10

 ここの所ちょっと風が強くて、イチジクの木が心配なので添え木をしておいた。最初のころ実がたくさん枝に付いていてが、それが全部葉っぱになっていた、イチジクの実と葉になる部分との区別が分からない、これは実だろうか葉になるのだろうか。もう二三匹、カミキリムシ系の虫が葉っぱに止まっていた。

 夏子は今日は先日の運動会の振替休日で家にいた。

 太郎、水泳教室。
 
 晩飯はカレー。以前からカレーが余ると少しずつタッパに入れて冷凍庫に保存しておいたが、それがいつの間にか相当量たまったので今晩はそれをひとまとめにして解凍したところ結構な量になった。これでは明日の朝の分までありそうだ。


令和 元年 5月14日 (火)

 朝の内、時々細かな雨が降っていたが、そのうちに上がっていい天気になった。今日も阿蘇中岳は小噴火をしていたようだ
     最低気温 16.1℃ (05:11)、最高気温 19.6℃ (12:01)

 登校風景  (写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7写真8写真9写真10

 宇治歯科に三月に一度の歯のメンテナンスに行く。

 自己啓発、今月中に目標達成のため追い込み集中する。

 晩飯。我が家には昔から婆様直伝の世の一般のシュウマイとは違うが、鶏や豚のミンチにレンコンなどをすりこんで片栗粉でくるんで蒸して作る、我が家の名前を冠したオリジナルシュウマイがある。今日は最初からやらずに、既に半製品の肉玉にレンコンをすったものを混ぜて作ろとしたが、肉玉が既に加熱済みでそれを崩して改めてレンコンを練り込むことが出来ないので、肉玉の周囲をレンコンのすり身でくるんで蒸したが、うまくくっつかず分離してしまって思ったようには出来なかった、それでも美味かったと見えて、太郎がいくつもおかわりをして食べていた。やはり生のミンチから作るべきであった。



令和 元年 5月13日 (月)

 晴れ。ただ風が強かった、10mくらいの風が吹いていた。
      最低気温 12.1℃ (05:22)、最高気温 24.9℃ (15:26)

 今朝の新聞に、昨日、阿蘇中岳で小噴火が4回あったと載っていた、気象庁の噴火速報には全く載らなかったし、噴火の定義がどうもよくわからない。

 登校風景 (写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7写真8

 自己啓発に没頭。
 
 晩飯 煮込みハンバーグ



令和 元年 5月12日 (日)

 晴れ。午後三時過ぎだったろうか、小さな雷雲が北の方を通過していった、雷が鳴っていたが、ここには影響がなかった、雨も降らなかったようだ。
      最低気温 11.8℃ (05:21)、最高気温 27.2℃ (13:31)


 今日は阿蘇草原保全活動センターで「野焼き支援ボランティア活動20周年記念祭」が開催されて、太郎たち「坂梨子ども虎舞」はイベントステージに出演するために出かけていった。小生と夏子は家で留守番をした。

 今日は何か写真を撮ったかなあと思って、メモリカードを確認したら、一枚も撮っていなかった、そんな一日だった。

 民放テレビでは、12日午前10時46分に阿蘇中岳が噴火。阿蘇市や南阿蘇村ではやや多い降灰が予想される。噴煙は、火口から1400mまで上がった。・・・・と報じていた。が誰も気に留めなかったようで、夜、寝る段になって、このニュースに気がついた。 ところが気象庁の噴火速報には全く出ていない、どういうこっちゃ。


令和 元年 5月11日 (土)

 快晴。気温がぐんぐん上がるも、湿度が低く、小生はずっと家の中に居たので全く暑さは感じなかった。
      最低気温 10.5℃ (04:42)、最高気温 27.0℃ (14:18)

 土曜週例、南阿蘇に馬の世話に行く、山越えの道中、今や見渡すかぎりの緑一色の季節だ。窓を開けて走ってももう寒くはなく爽快な気分になる。 (写真1写真2写真3写真4写真5
 
 お馬さんから戻ってネットを見たら、昨日の地震の記事かと思ったら、また昨日の場所からすぐ近くで地震があったばかりだという、小生ちょうど移動中で気が付かなかった。非常に不気味な心持ちである。ここでは震度3だったということだが、太郎に訊いたらところ地震があったこと知らなかったみたい。

 今日は夏子の高校の運動会、三人で出かけていった、小生は家で自己啓発に勤しむ。
 
 家の周囲の田植えが終わった。朝から始めて夕方には終わった、少人数であっという間だ、昔に比べてコメ作りが一番機械化された農業だろう。(写真1写真2)
 
 太郎、午後7時から明日の本番を前に最後の虎舞の練習に行く、母親がいるので小生の出番なし。


令和 元年 5月10日 (金)

 晴れ。夏日だったようだが湿度が低かったせいか全く暑さを感じなかった。今日も噴煙が多かった。(写真1写真2写真3)
   最低気温 8.3℃ (05:57)、最高気温 25.2℃ (15:23)
 
 登校風景 今日は自転車点検でこどもたちは自転車を押して登校していった。先日予定されていた56年生の点検が延期されて、今日は3456年生が揃って自転車を持っていった。太郎も3年生だから該当するのだが、太郎は自転車にあまり興味が無いようで、以前からあった自転車も乗らないので赤錆だらけでスクラップにして出したので我が家には今自転車がない。この先、もし自転車を買うようなことがあったらその時に点検を受けることにして今日は自転車無しで登校していった、けっこうそういった子はいるみたいだ。
  (写真1写真2

 朝8:50ころ宮崎地方で大きな地震があった。突然、携帯や防災無線などから一斉に地震警報が鳴った、Jアラートも「大地震です、大地震です」と叫んでいたので、身構えていると、すぐに、グラグラと来た。警報が鳴ってから揺れ始めるまで一呼吸あったので、ああもしかしたら宮崎方面かなと思っていたら、そのとおりだった。宮崎市で震度5弱と言っていたので、今どきこの程度では大したことなかろうと思ったが、宮崎の人達、一瞬、南海トラフ地震が頭をよぎったことだろう、この先、大きな地震につながらなければいいが、ここは震度3程度だった。

 JLZが郷里の草刈りに登って来て、帰りに寄ってくれた。今日はRaspberry PiとRTL-SDR dongleでAPRSのI-Gateを作ったのでその技術移転とデモンストレーションに寄ってくれたのだ。このRaspberry PiとRTL-SDR dongleを使ったAPRSのI-Gateについては日本のサイトにもいくつか紹介されているが、どうも今ひとつ、ということで氏はUKのサイトからその方法を見つけてきて環境を構築したそうである。確かに簡単そうである。設定してあるデータがJLZの家の座標になっているので、小生のクルマからの発射電波が小生の家に居ながら、JLZの住所で受けているように軌跡が出ていた。小生の「死ぬまでもひとつプロジェクト」が終わったら、早速この作業に取り掛かることにしよう。今のI-Gateの構成は、省電力とは言え、ノートPCだし、無線機もモービル機である、これが24時間365日稼働しているから電気代が相当なものになるだろう、これをRaspberry Piでやると一日に数ワットで済む上に省スペース化ができる、是非切り替えたい。
 
  jtq@横浜から、今年も遅くなったけど四十雀が卵を生んだという連絡があった、http://polluelo.dip.jp:86/live.html?src=1
あるいは http://polluelo.dip.jp:50002/CgiStart?page=Single&Language=1 のどちらかで、生動画が見られる。

 晩飯。豚肉のムニエル、ジャーマンポテトなど

 太郎、夜7時から坂梨体育館で虎舞の練習、送迎する。どこの田にも水が入ったので星空の下、カエルの大合唱が響いていた。

 今日は「初体験」を二つした、初体験は一度が相場だが、二度もした。
 
 一つ目は、銀行の預金通帳の繰越、二つ目は、コンビニでの振込。
 
 小生の生活スタイルは、二ヶ月に一度、年金が振り込まれて、全部使い切っても足りないくらいなので、自動引き落とし分を残して一度に全部おろしてしまえば良さそうなものを、何回かに分けて下ろして使う。
 
 普段は空いている市役所のATMを使うのだが、通帳の記入欄が残り少なくなっていたので、どうせ繰り越す手間が出来るので、最初から銀行のATMに行って預金の引き出した。そして当然のごとく、ATMから、最終ページ最終欄に「お通帳の繰越続をお願いします」と印字されて通帳が戻ってきたので、窓口に持って行った所、以前はそこで新しい通帳を作ってくれたのだが、窓口嬢「機械で新しい通帳をお作りできます」という返事、へえ、そうなんだと思って、ATMに引き返してディスプレーを見るとたしかに、そういうボタンがある、そして件のいっぱいになった通帳を機械に入れると、しばらくして新しい通帳と古い通帳が出てきた。へえ、便利になったものだ、と思って、帰ってきたが、後から、マテマテ、それじゃあ、最初から「お通帳の繰越続をお願いします」と印字したあと、「引き続き新しい通帳をお作りしていますからそのままお待ち下さい」となぜ続かないのだ。なんだか後になって腹が立ってきた。
 
 それに、ATMというのは引き下ろしだけなら(預けるならば、も同じだが、小生が預けることなど先ず無い)、すぐに終わるが、振込をすると時間がかかり、それを一人で延々とやっている奴がいる。奴というのは、他から見れば、であって、本来は決して奴ではないのだが、それでも恐縮しながらやる人もいれば、後に待っている人のことなど全然気にしないでやるひともいる、そういう奴を見ていると腹が立ってくる。そうかと思うと、中には、あまり振込件数が多いと一旦中断してまた後に回ってやる気の弱い人さえいる。小生もどちらかと言えば後者のほうだが。それもこれもATMの台数が少ないからだろう、それに、どうして窓口で振り込むと手数料が高いのだ、これがオカシイだろう、今は預金してもほとんど利息はゼロに近いのにそれに較べたら、どうして、高額な手数料を取るのだ、窓口なんかどんどん減らしてATMを増やせば良いのだ、最近は直接窓口に行く客が減って、支店も縮小、窓口も縮小しているようだが、今まで殿様のような商売をしてきた銀行の斜陽化、驕れる者は久しからず、小生は内心快哉を叫んでいるのだ。
 
 オマケ。古い預金通帳は「新通帳に繰越」と印字されて戻ってくるが、その日付が、西暦でなくて元号で打ってある、へえ、と思って、念の為に中を見ると、入出金日付も西暦の下二桁でなくて元号になっている、いままで全く気が付かなかった。グローバルな商売なのに、こういうところでは元号を使っているようだ、ここは褒めてやる。
 
 もう一つの体験
 アマチュア無線連盟の年会費、やめようと思ったが、もう今年一年継続することにした。その会費の納入方法に、従来どおり、送ってきた振込用紙で振り込む方法の他に、事前手続きをしてコンビニから振り込むと手数料が無料になる方法がある。従来の振込手数料も安いものだが、なんでも経験、コンビニから振り込む方法で振り込んだ。
 
 Loppi(ロッピー)というシステムで、全国のローソンに設置されていて、各種グッズ販売やチケット販売、保険への加入、クレジットカード・公共料金の支払い代行、消費者金融の返済などのオンライン取引を行えるマルチメディアキオスク端末(MMK)なんだそうだ。
 
 ネットで、事前に番号を発行してもらって、それを持ってコンビニに行って、Loppiにその番号を打ち込んで振込票を発行してもらって窓口で支払う、最近はそんなシステムもあるのだ。ますます銀行は要らなくなる。

 ネットといえば、先日、なんとかジャンボを初めてネットで購入したが、今日その発表があって、メールで案内が来たのでサイトにログインして確認した。当たり番号を確認したり、宝くじ売り場に出かける必要もなく自動的に結果が表示されるので実に簡単で余計な手間を取らずに済むのでいい。一面、宝くじの楽しみというものも欠けるかもしれないが、こちとらはそれを望んでいるわけではないので一向に構わないのだ。9,000円分買って3,000円が一枚当たっていたので、全部で3,900円の払戻金、ということは、5,100円の損ということか、まあ、こんなもんだろう。


令和 元年 5月 9日 (木)

 晴れ。と書いてから写真をチェエクしたら、朝のうち雨だったのだ、そうだった、でも春の雨で雲も薄くて太陽の位置が確認できるほどだった、午前中には上がって、昼からは晴れた。そうだった、朝雨だったので夏子は清峰校舎までクルマで送ってもらって、夕方は4キロの道を歩いて帰ってきたのだった、すぐに忘れてしまう。  (写真1写真2
 
    最低気温 11.1℃ (05:21)、最高気温 19.7℃ (17:14)
 
 登校風景 普段より徒歩通学は少なかった。
  (写真1写真2写真3写真4写真5写真6

 今日昼過ぎにまた阿蘇中岳、小噴火があったようだ、外に出なかったので夕方まで気が付かなかった、ここではこの程度の小噴火では市の防災無線はなんとも言わない、その程度のものをマスコミは騒ぎ立てるのか、あるいは、小さくても行政は市民に情報を流すべきなのか。(これは噴火してしばらく経ってからの噴煙が少し多い状態の写真)(写真1写真2

 裏の方にある木の葉の表面に丸い玉のようなものがびっしり・・・・・見当がつかないのでネットで調べたら、どうも「虫こぶ」というもののようで、中に寄生虫がいるらしいがよく分からん、放おっておくとどうかなるのだろうか、面倒だからできれば放っておきたい。

 やっと?10連休が終わったと思ったら、8月には下手?をすると9連休が待っているそうだ。「山の日」絡みで、土曜休みやお盆休みを入れると9連休なるとか、子どもたちは夏休み期間中だから関係がないが、親が連休になると子どもたちと一緒に遠出ができるということになるな、三人組はおじいちゃんおばあちゃんの所にでも行けばいいのに。

 晩飯 チキン南蛮


令和 元年 5月 8日 (水)

 快晴、風もなく、鏡のような水面にシンメトリーに阿蘇の風景が溶け込んでいた。(写真1写真2写真3
     最低気温 3.7℃ (05:41)、最高気温 20.9℃ (14:04)

 登校風景 (写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7写真8写真9写真10

 NHK NEWS WEBというサイトがある、NHKのインターネット版であるが、天皇陛下の「御名御璽」の映像があった。環境が人をつくる、地位が人をつくる、そういった表現が相応しいかどうかわからないが、皇太子時代の顔つきとは全く違っておられる、そういうものなのだなあ。

 普通、連休中は図書館やってるよなあ。こどもたちもこの連休中、図書館やってないのオ、と呆れていた、ここの図書館は誰のためにあるの?勤め人は図書館には行くなということなのか。調べたら、連休中のここの図書館の休館日は国会図書館とほぼ同じだった、さすがだな。
 
 夏の参院選の政党名、「立憲民主党」の略称を「りっけん」にするそうだ、理由の一つに、立憲という漢字だと難しいからだというらしい。これ国民をバカにしていないか、立も憲も小学校で習う教育漢字だろう。

 太郎、水泳教室。
 
 昼、久しぶりに皿うどんを作る。夜は炊き込みご飯


令和 元年 5月 7日 (火)

 快晴(写真1写真2)。今日もひんやりしていた。起きると、先日均しておいた畑に、何か動物の足跡が・・・・
     最低気温 8.1℃ (06:03)、最高気温 19.3℃ (15:26)

 10連休も終わり、家族それぞれ各人の持ち場に向かい、我が家ではようやく普段の静けさが戻ってきた。夏子は今週の土曜日が運動会だそうで、普段は阿蘇校舎に通っているが、練習のために清峰校舎に出かけていった。高校と中学校が運動会を春に行って、小学校は秋である。

 登校風景 (写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7写真8写真9写真10

 午後7時から太郎は虎舞の練習、夕食を早めに済ませて送迎をする。「坂梨子ども虎舞」が今度の日曜日に開催される「野焼き支援ボランティア活動20周年記念祭」のステージイベントに出演するそうだ。そのための練習だ。(写真
 
 晩飯 キジ焼き丼



令和 元年 5月 6日 (月) 振替休日?でいいのかな。

 晴れ(写真1写真2)。昨日までと較べてちょっと気温が低めだったので、娘なんか寒いと言っていた、決して寒いという気温では無かったが、湿度も低かったし、もう夏の服装をしていたので、特にそう感じたのだろう。
    最低気温 11.0℃ (03:50)、最高気温 19.4℃ (11:14)

 川っペリのボンの散歩道、最近一部だけ舗装したが、アスファルトを破って草が生えているのに気がついた、草の成長する力というものはこんなにもすごいものなのか。

 小生には全く関係がないことだが、始まりワクワクで、終わりは憂鬱な10連休が今日で終わった。関係がないと言いながら、終わってしまえばあっという間の10連休だったようだ気がする。人間の暮らしには、楽しみと憂鬱のこういったメリハリがあったほうが良いのかもしれない、学徒は別にして、勤労者諸君の次の連休はお盆休みにでもなるのだろうか。
 
 それでも小生が思うに、普段休み慣れていない人間が、今回無理やり10日も休まされて、時間の使い方がわからず、ウンザリして逆に明日からの仕事を楽しみにしている人もきっといるに違いない。

 夏子が珍しくも、朝食の時、イイよねえ、部屋の中から美しい景色が見られるのだから、と言っていたが、観光地に住んでいて、もうひとついいことは、行楽シーズン中、出かける時に、阿蘇にやってくる人たちと行きと帰りの方向が反対なので、朝も夕方も渋滞に関係なく走ることが出来ることだ。でも、今年は阿蘇に関してはあまり渋滞が無かったような気がする。ただ、今回、小噴火したとき、三人組は帰るべく我が家方向に走っていると、たくさんのクルマが反対車線を逃げるようにして阿蘇を後にしていたと言っていた(たまたま帰りの渋滞だったのかもしれないが)、やはり噴火が怖かったのだろうか、カルデラ内にいると地底からマグマが吹き上げるという恐怖心があるのだろう。今日、ちょっと落ち着いていた中岳の噴煙、夕方見たらまた多めに上がっていた。

 今日は明日からの平常運転に備えて我が家では外出することもなく皆んな家にいて、勉強や掃除などをしていた。小生も、秘密基地の整理をした。
 
 秘密基地、作るには作ったが、外壁などまだ全く手付かず、内部も完全に物置と化してしまって、色々なものを放り込んでいたので、今日は片付けたり不要なものを燃やしたりして、とりあえずは、小生が座る環境を整えた。しばらくはいい季節なのでここで過ごす時間が増えるだろう。
 
 今日は秘密基地に置いてある無線機で久しぶりに6mを聞いたらやはりシーズン到来だ、よく開けていた。小生はアワードもカードも欲しくはないので、ワッチだけしていた。うっかり出ると、阿蘇なんか珍局の部類にはいるのですぐにWebクラスターに載ってパイルになって、その総てがカード交換につながるので、それはもう御免こうむりたいのだ。時々ノンビリとQSOするのはいいが、最近はただ、カードが目的でレポート交換だけやる局が多くて嫌なのだ。


令和 元年 5月 5日 (日) こどもの日

 快晴。
   最低気温 8.8℃ (05:45)、最高気温 24.9℃ (14:33)

 太郎と母親は朝早く、テニススクールに出かけた(夕方には帰ってきた)
 
 昨日鋤いた畑を綺麗に均しておいた、今年は何も植えないつもりなので、時々トラクターで走れば、雑草も生えないだろう、大して面倒な作業ではないので、これはちゃんと励行して、秋にはレンゲの種を蒔こう。今日、ちょっと用事でここから少し奥に入った三野に出かけたが、田んぼにレンゲが咲いていた。昔はどこでも田んぼにはレンゲの花が咲いていたが、最近は田植えの時期が早くなって、レンゲの開花と田植えの時期のミスマッチで、レンゲを植えなくなったのだろうと小生は想像しているが、あるいは単に情緒心の問題かもしれない。この田圃は多分休耕田だろう。
 
 窓の外に目をやると、タケノコになることなくどんどん伸びてしまった竹が何本もある、なるべく早く切り倒さなければ後が大変だ。

 恒例の菖蒲湯を立てる


令和 元年 5月 4日 (土) 天皇陛下の即位を祝う一般参賀が行われて大勢の人たちが皇居に訪れた。

 快晴。田に水が入り今年も豆札モンサンミシェルが出現した。
    最低気温 6.8℃ (05:33)、最高気温 24.5℃ (13:44)

 今日は夏子は本人を入れて友達4人で熊本方面に遊びに行った、それに大津まで送っていく運転手のカミさんの計5人になるので太郎ははじき出されて小生と一緒に馬の世話の方に行くことになった。連休で都市間バスは満員で乗れない恐れがあるので、結局クルマで阿蘇を下った大津まで送り迎えしなければならないのだ。「オイ!f-JR九州、大津~阿蘇間の代替バスを走らせろ、公共交通機関としての自覚を持て、社会的な責任を果たせ!」

 カミさんは娘たちを大津まで送って帰ってきてから仕事に行った、そしてまた夕方、大津まで迎えに行く予定だったが、今までほとんど出掛けた経験がない夏子も最近はようやく一人で少しは遠くまで出かけることが出来るようになったところに、今日は4人ということもあって、夕飯まで外で食べるという連絡が入ったので、その分、カミさんの迎えのクルマもずれ込むことになり、午後8時を過ぎた頃帰ってきた。
 「オイ!f-JR九州、大津~阿蘇間の代替バスを走らせろ、公共交通機関としての自覚を持て、社会的な責任を果たせ!」今日はニ連発だ。

 太郎も馬に対する恐怖心が大分薄れてきているようで、馬のいる囲いにもよるが、自ら囲いの中に入って餌をやることができるようになった。
 (写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7写真8写真9写真10

 一週間ごとに山越えをしているが、一週間で緑がさらに広がって、今は若葉と瑞々しい新緑とで少し前の黒っぽい阿蘇から大きく変貌を遂げて見事なパノラマが広がっている。吹く風も爽やかで実に気持ちがいい。朝の内、噴煙が南に向かって流れていたので、多分降灰の下を行くことになるだろうと思っていたら、我々が行っている間は殆ど噴煙もなく青空が広がっていた、ただ、昨日あたりに降った灰で別荘地などに停めてるクルマにはそれほどではないが、薄っすらと灰が積もっていた。
 (写真1写真2写真3

 午後から前の畑を鋤いておいた。真ん中あたり少し鋤き残したところがある、これは、「自生ジャガイモ」である。自生というのは、確か一昨年だったかのジャガイモを堀り残したやつで、去年は裏の方に植えたので、ここのジャガイモは前年の地中の芋がまた自然に成長して、そのイモも去年収穫しないまま終わって、今年になって、また勝手に地中から伸びてきたイモである。だから自生なのだ。肥料もやっていないし、結果的に連作になるので、果たしてこのまま収穫まで漕ぎ着けるのかどうか分からないが、かなり葉が繁ってきているので、このまま鋤かずに様子を見ることにした。もしかしたら素揚げ用の小さなジャガイモくらい出来るかもしれない。

 今日は阿蘇中岳は大人しかった。「噴火」というとすぐにホームページのアクセスが増える


令和 元年 5月 3日 (金) 憲法記念日

 今日も五月晴れだったが、午後4時頃から夕立めいた雨が降って雷もなっていた、狭い範囲の雲のようで、遠くの空は青空が広がっていた。
      最低気温 9.3℃ (05:56)、最高気温 23.4℃ (14:31)

 我が家の三人組は、熊本方面に出かけていった。夏子は友達と映画を観るそうで、途中まで夏子を送る母親と太郎は別行動で(博物館だったそうだ)、帰りにまた夏子を拾って帰ってきた。往復の道路、以前はこの時期大渋滞だったが、今年は、夕方、阿蘇から熊本方面に帰る車がちょと混んでいた程度で大したことなかったそうである。
 
 小生は、南側の畑の後始末をした。いつの後始末かと言うと、三年くらい前になるなあ、先日切った茶の木などを燃やしたり、ずっと埋まったままになっていたマルチを掘り出したりして、菜園は作らないまでも、少し綺麗にしておいて、できれば秋口にレンゲの種でも蒔こうかと思ったりしている(ついでに馬が来てくれるといいけど、これはちょっと無理だな)。今日はトラクターで少し耕したところで、雨になったので、それを汐に作業をやめた
 
 阿蘇中岳、今日はイヤに噴煙が多いなあと思っていたら、夕方近くに小規模噴火があったみたいだ。今日阿蘇山見物に来た観光客は儲けもんということだ、現に活発に活動している火山を間近で見られるところなんてそうそう無い、阿蘇くらいだ。一心行の桜にあれだけの人がやってくるのだから、見にくればいいのにと思うのだが、やはり怖いのだろうか。御嶽山や草津白根山あるいは雲仙普賢岳の火砕流やピナツボ火山なんかのイメージが強すぎるのだろう、絶対に大丈夫だという保証はできないが、草千里からだって距離は見た目以上に十分にあるので、大丈夫なんだけどな。
 普段であればこの程度の噴火でも地元紙の速報メールが入るところだが、新聞社も連休で「お休み」とみえる、まあこの程度で報道しないほうが風評被害が起きなくて良いのだけれど、なんだか新聞も良い商売だねえ。
写真1写真2写真3写真4


令和 元年 5月 2日 (木)

 晴れ。久しぶりにいい天気になった、気温も上がった、気持ちのいい五月晴れだった。
      最低気温 9.2℃ (05:44)、最高気温 20.8℃ (16:13)

 我が家の周辺が田植えの準備で賑やかになってきた、早くも田に水が入り始めた

 今日は久しぶりに秘密基地に籠もって自己啓発に励む。こどもたちは一日家で過ごしたが明日からまた続けて出かけるようだから、今日はそれに備えて英気を養っていたのだろう。


令和 元年 5月 1日 (水) 新天皇陛下即位

 雨はようやく上がったがどうもスッキリ晴れない。夕方6時過ぎ、太陽が傾き始めた頃、ようやく雲の切れ間から日が射し始めた。
       最低気温 14.3℃ (06:55)、最高気温 17.8℃ (12:13)

 「令和」の始まりを恭賀して真新しい国旗を掲揚した、我が家の代替りにはまだ早いが令和はもう太郎の時代の元号だから令和歳旦の国旗掲揚を太郎に任せた。最近は国旗を掲げる家が少なくなった、夕方風呂に行く道すがら探したが、57号線沿い、一軒しか掲げていなかった。(写真1写真2)
 
 昼のテレビニュースを見た、新天皇さん、成りたてホヤホヤで、まだ貫禄が足りないのだろうなと思っていたら、どうしてどうして一夜にして天皇としての威厳が備わっておいでだった。それでもしばらくは、ご自身も国民の側にもしっくりと来ないところがあるかもしれないが、上皇さんが践祚されたときも皇太子さんのイメージが強かったがいつの間にか天皇さんになられていた。
 
 ひと月前に新元号が発表された際に、国語力の貧しさで自ら恥を晒すことになる一部政治家や左かかった大学教授や評論家たちが飛びつくようにして否定的な感想を述べていたが、彼らは今でもそう思っているだろうか、英語で言うと Beautiful Harmony になるらしいが、なかなか言い得て妙である。多分彼らは自らの先走りを内心恥じていることだろう。

 日本人の国語力、1000年以上もの昔に比べて、そして、現代になって文語体が無くなって本当に劣化した、日本の美しい言葉や文章がどんどん無くなっている、この「令和」の出典、麗しい日本の風景や空気や匂いまでもが伝わってくる、実に情緒あふれる文章ではないか。

  初春の令月にして 気淑く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披く、蘭は珮後の香を薫らす・・・・(朗読をどこかからか拝借
 
 娘がヤマピーがどうのこうのと言っていたので、そのヤマピーって何だ?と訊いたら、えっ?お父さんヤマピーも知らんと?と来た。前後の言葉からタレントか何かの短縮した呼び名だとは思うがピーとはなんだ、そんなもの知るか、今は何でもかんでも短縮して呼ぶ、短ければ良いというものではない、実に不愉快である、今の時代、すべてが未成熟な若者たち中心の幼稚な文化になってしまっている。歌にしてもそうだ、今の音楽には「詩」が無い(だから残らない)、須らくテレビ文化の悪影響だと思っている。日本は英語を教える前にもっと国語教育に力を入れなければならない。とジジイは思うのである。
 
 カミさんは午前中、仕事に行った、夏子も、中学校の吹奏楽部に出かけて行った、合同演奏会の予定でもあってその練習だろうか。太郎は退屈退屈の連発でゴロゴロしていた。早くも10連休も折り返し点か。カミさんは昼食の準備で一旦帰ってきたが、午後からまた仕事に行った、小生はこの連休の期間、飯の支度をしないで済むのが何よりである。夏子は夕方から友達とジョイフルに食事に行った。母親が送って帰ってきたのを見て、太郎も行きたいということになって、結局太郎も後から母親と参加して、お父さんはボッチ飯になった。



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