風師庵日記目次へ

平成29丁酉(2017)年 8月の記録(新しい日付けの順)

平成29年 8月31日(木)

 今日も爽やかな空だった、もう秋の空になっている。明日の朝は阿蘇地方、15℃台まで下がると言っているが。
      最低気温 18.5℃ (06:02)、最高気温 29.3℃ (14:55)

 本日の登校風景。(写真1写真2写真3写真4写真5写真6)、登校路に誰か不届き者が車の中から灰皿の中身を捨てたのだろう、タバコの吸殻が山になって落ちていたようで、合流点まで子どもたちを送ってきたお母さんと子どもたち、その吸い殻を集めていた、阿蘇にも悪いヤツがいるものである、自分だけ良ければというこういうヤツには本当に怒りを覚える。。

 今日は来客行事を終えて、ホッとして一日ぼんやりとして過ごした。

 夕方、その暖一家は無事に豊田市に戻り着いたそうだ、そして、明日から始まる二学期を前に、こどもたちは溜まった宿題の最後の追い込み中だということだった。

 晩飯。餃子など

 全くもってそのとおりである、最近では受信から送信まで全部PCでやる局があるという、そんなことで稼いで面白のか。


平成29年 8月30日(水)

 晴れ。ここのところ天気が非常に安定していてにわか雨の心配も無い、田んぼの稲ももう刈り取りを待つばかりになっている。今朝の新聞だったか、阿蘇でも稲刈りが始まったとあった。例年、この時期になると必ず台風がやってくる、今年の稲刈りは無事に終わるだろうか。
     最低気温 22.3℃ (01:44)、最高気温 30.8℃ (14:32)

 今朝の登校風景(写真1写真2写真3写真4写真5写真6

 我が家で一晩過ごした暖一家、我が家の子どもたちを送ってノンビリと午前中我が家で過ごして(写真1写真2)、昼ちょっと前に、発っていった、小生が一人で見送る。その後、とりあえずは草千里に行ったそうだ、それから、大分方面に向かって適当に時間をつぶして、夕方、別府からフェリーで大阪へ、そして名神高速で豊田まで帰っていくという、休暇は明日までだそうだ、またの来訪を。いつものことだがお客さんが去ったとの家というのはガランとして妙に物寂しいものがある。
 
 外輪山上にある酪農のT尾牧場氏が昨夜、バーベキューの時に届けてくださった、夕方搾ったばかりのまだ殺菌前の牛乳、美味しかった。小生はT尾牧場氏とは子どもたちの学校関係や子供会などでお付き合いがあるが、晴佳ちゃんは我が家とは全く別のルートで氏を以前から存じ上げていて、その関係で、昨日、ちょっと牧場をお訪ねしたようだ。と言うのは、クッキング関連のFacebookで以前から双方に交流があって、それが偶然我が家の親戚であったということがわかったという次第である、インターネットというものは昔では考えられない交流関係を生むものである。
 
 昨夜のバーベキューでは是非使おう、こんな時に使わずにいつ使うのだと楽しみに準備をしていた、カーバイトランプ、バーベキューの準備に追われて、すっかり忘れていて、終わってから気がついた、全くアホである。
 
 住民健診の結果が届いた。ここ二三年は、必ず「要再検査」項目があったために、すぐ再検査をするようにということで、普通より早く郵送されてきていたが、今年はそれがなかったので、受診者全員に一斉送付するの合わせて送られてきた。
 
 昨年大腸がんの手術をして、それ以降、内蔵関係の経過観察もあってその後何度か病院で検査を受けているの、今回の住民健診ではそれらの健診はパスしたので、今回は特定健診関係の結果だけである。
 
 見ると、今年の診断結果が、最近では一番良かったようだ。ただ、HbA1c(ヘモグロビンA1C)の値が若干、それからLDLコレステロール値が高い。また腹回りが今まで一番大きい。この腹回りはメタボ診断の材料になるが、メタボ診断の基準は腹回りだけではないので、小生はメタボでは全く無かった、予備軍でも無かった。それから身長と体重で算出される、BMIという肥満度係数があるが、これも23.8で、基準値の24.9以下であった。 BMI=体重(Kg)/身長(m)^2 で、BMI=66.5/1.67^2 という式になる。
 
 これを電卓だと、66.5を1.67を二乗したもので割ることになるが、ここで計算尺の登場である。
 
 A尺の66.5にC尺の1.67を合わせると、C尺の基線上のA尺上に23.8というBMI値が計算される、ワンアクションである、電卓より早いのである。つまり、a/b^2なんて計算は電卓で計算するよりも早いのである。

 夏休み中、これも休みだったアゼリアの太郎の水泳教室がまた今日から始まった。
 
 夕ご飯。昨日の残り物の整理と言うか、バーバキューの材料を使ってテーブル用にアレンジして食べた


平成29年 8月29日(火)

 朝の気温が19℃を切った、それにしては起きた時にそんなに寒くなかったなあと思ったら、昨日のうちに窓を閉めて薄い布団もかぶって寝たのだった。日中の気温も数字ほどではなかった。
     最低気温 18.4℃ (05:39)、最高気温 31.2℃ (15:01)

 登校風景。(写真1写真2写真3

 朝、北朝鮮がまたミサイルを発射して北海道の上を飛んで太平洋に落ちたらしい。朝からずっとラジオでそのことを伝えていた、時間が経つにつれてかなり騒々しくなったが、始めの頃は、NHKのアナウンサーもやることになっているから放送しているという雰囲気で地震の時の緊迫感のある放送とは違って淡々と放送していた(ミサイルのスピードを考えたら順序が逆だろう)。こう何度も飛ばされると人間、麻痺するのか、「敵」はそれを狙っているのか。兵器だぞ、ミサイルだぞ、核が積めるんだぞ、それが我が国の上空を断りもなく飛ぶのだぞ、どうでもいいことでヒステリックに閉会中審査を求めている野党は最近の一連の北朝鮮の行動を一体どう思っているのだ、これでもまだ審査請求はしないのか?平和ボケも極まれリだ。グアム島はヤバそうだが日本なら文句は言うまい、破壊措置命令も出なかった、多分実際に打ち込んでもアメリカは何もしないだろうと見切っているな、完全に舐められている、志位さん、蓮舫さん、あ、蓮舫さんはもう辞めたのだったか。

 57号線二重峠のトンネル工事の様子が新聞に載っていた、工事は順調のようだが、工法はシールドマシンなんか使わずに、ハッパで崩しながら掘っていく従来工法のようだ。この程度の短いトンネルなら、シールドマシンを組み立てる程のことは無いのだろう。
 
 小生の甥になる、暖、その妻の晴佳、そして大路、陽路、あおの三人の子どもたちが、はるばる豊田市からやってきてくれた。彼らはリンクのページにあるイタリアンレストランをやっていて、普段なかなか休みが取れないところをなんとか工面して来てくれた。子どもたちも楽しみにしていた。
 
 夜には庭先でバーベキューをした、普段、我が家の客人の年齢層からはなかなかバーバキューをする機会が無かったが、今晩は若い夫婦と子どもたち、なので、久しぶりにバーベキューをすることが出来た。太郎もいつもより二時間近く遅くまで起きていたので、明日の朝が大変だろう。
写真1写真2写真3

(さすがに今回は閉会中審査を開催するようだ)


平成29年 8月28日(月)

 晴れ。すこし朝霧が立つ。
     最低気温 21.4℃ (04:44)、最高気温 29.6℃ (16:14)

 今日から小中学校は第二学期が始まった。下界よりは数日早い、その分、寒い時期の冬休みが長くなるのだろう(そうだったろうか)。しばらく休んでいたのでうっかりして、登校見守り出動を忘れるところだった。夏休みに入る前に比べたら、たった一月くらいの間に稲穂がすっかり色づいてもう間もなく稲刈りの時期を迎える、自然の中にいると刻々の季節の変化がよく分かる。

 坂梨地区登校風景(二学期が始まる) 連続写真 15枚

 二学期が始まって久しぶりに子どもたちの登校路に立った。いつものT字路に行くと、交差点の両コーナーに黄色いロープが張ってある、あれ、ガードレール壊れたのかな、となると、ガードレールの柱に取付けてあった黄色い旗も無くなっているかなと思って、しみじみ眺めると、もともとそこはガードレールのない場所で、本来のガードレールの端にはちゃんと横断旗が入っていた。
 
 ということは・・・・・、夏休みに入る前は、ガードレールが無くても、そこから下は深い用水路があるぞということが誰にでも分かった、それが夏休み中に草が生い茂って、草むらの下が用水路であることがわからなくなったので、危険防止のために誰かが、ロープを張ったのだろう。学校か、保護者会か、子供会の誰かか、行政ではないだろう、今の行政にはそんな余裕は無いだろう。

 ここは我々の村がいつも区役で草を刈るところだ、でも、草刈りは年二回で秋の草刈りはもう少し先だろう、それに小生はもうこの区役には出ていない、よし、それじゃあ、小生がちょちょいと刈っておこうと、我が家の皆がそれぞれの持ち場に出かけた後、刈払機を積んで出かけた。この程度だったらものの30分もあれば終わるだろうと思っていたからでもあったのだが、どっこい、ここに生えている草が太くて強いツル性の草で、チップソーでなくてナイロンコードのために、直ぐに絡んで、それで回転が止まってしまう、その度に、肩から吊っている刈払い機を外して、絡んだツルを取ってまたエンジン始動して、草を刈っているとまたすぐに絡む、この繰り返しで、草を刈る時間よりもツルは取り外す時間のほうが多く、全く作業が捗らない。刈払機二台持ちの時には、適宜取り替えればよかったのだが、一台でやっているので、ナイロンコードとチップソーの交換作業が大変なので、イライラしながらもナイロンコードで作業を続けた。
 
 最初はすぐ終わるつもりで、飲料水も持っていかなかったので、脱水症状になりかけたので、途中一旦作業を中止して、家にもどって、給水と給油をして、また作業にもどって、予定の三倍の時間を掛けてざっとだが、通学路の安全を確保しておいた。こどもたちのなかには登校時に結構ルートを外れて草むらの中に入り込む子もいるので、たとえ我が家の草刈りはしなくても、ここはやっておけば安心だろう
 
 晩飯。チキン南蛮、コールスロー、ポタージュスープ、イチジク(が今安い、苦手な人も結構いるが我が子たち、珍しく二人とも大好きだ)。
 8/22の日記の小生の長駄文にKK5さんからメールが届いた、本来なら掲示板に投稿するつもりだったとあるので、面白くて昭和の歴史的価値?もあるのでご本人の承諾を得て小生の返信も併せて日記に転載することにした。(掲示板の投稿記事は、ダウンロードして保存ができるシステムになっていればいいのだが、先入れ先出しで、一定数を越えると古い記事からどんどん消えていって、本当なら日記よりも面白のだが、記録に残せないのが残念である)

(以下メールを転載)
※※ 風※様

 忙しさにかまけて投稿文を書かないうちに掲示板の話題がどんどん進んでいます。今更話題を引き戻すのもどうかなと思い、メールでお送りすることにしました。

大論文に思う
 またちょっと目を放したら風さんの日記に、『我が道楽を「微分・積分」する』と題する大論文が掲載されていました。私が50年以上思い続けていた事が全て網羅されていて、私の主張する所が全く残っていません。どうやらすっかり盗まれたみたい(笑)。

 私の言う所が無くなってしまったので、何処かの総理みたいに、知りたいのなら(知りたい奴なんかいないとは思うが)読売新聞、じゃなかった、風さんの日記を読んでくれとでも言っておくとするか。
 注釈という程のことでもありませんが。大論文の中で気付いた事などランダムに並べてみたいと思います。

【蒸気機関車への思い】
 同世代ですから思う所に変わりはありません。1895年(明治28年)生まれの父親も若い頃に作ったことがあると聞かされていました。厨房関係に携わっていた関係から浅草の寿司屋、てんぷら屋等の旦那衆とのつきあいがあり、製作を頼まれたのかきっかけだったそうです。当時蒸気機関車の模型(ライブスチームとはまだ言ってなかったと思います)が流行っていたそうです。今と違って当時は蒸気機関車が最先端のハイテク技術だったのだと思います。

 先方は金はあるが技術(腕)がない、当方はその逆ですから今風に言えば、Win-Winの関係ですから類は友を呼ぶという訳で幾つかの注文を受けたとのことですが、せいぜい5台くらいではなかったかと思います。そのうち他人のばかり作っていても面白くないので自家用を作ったとのことでしたが、関東大震災の避難先(多分上野の山)から戻ってきたら火事で家ごと丸焼けで蒸気機関車はただの金属の塊になっていたそうです。先に若い頃と書きましたが、この「くだり」から逆算すると28歳くらいのときだったと思います。

【自分のこと】
 父親譲りかどうかは判りませんが、鉄道とか船とかは好きだった「よう」です。「よう」と書いたのは自覚があった訳ではなく、親・兄妹の言に依るからです。
 彼らの言うには、まだ疎開する前で東京にいて、やっと歩き出した頃のことです。地下鉄の田原町駅(銀座線の東側の終点浅草駅の一つ手前・当時の地下鉄は銀座線しかなかった)から100メートル余りのところに住んでいましたが、私一人で表に出て歩いていくというのです。(よちよち歩きで道路にいても当時は危険な交通事情ではなかった)どこに行くのかと後を付けていくと地下鉄の駅(勿論田原町)に下りていったというのです。当然その直後に「逮捕」されたと思うのですが、一人歩きしたり、逮捕後抱きかかえられて電車を眺めた記憶はありません。当時近くの鉄道と言えば国鉄の上野か東部鉄道浅草駅しかありませんでしたが、路面電車(都電)は走っていました。

 小2の夏休みに東京に戻った頃からは鉄道と船舶に熱中しました。自動車と航空機は嫌いではありませんでしたが余り興味はありませんでした。自動車は鉄道、船舶に比べてスケールが小さいとか、航空機は当時近くで見たり乗る機会が無かったとか視力が悪いので良く見えなかったのが理由だったのかも知れません。

 船は小4の頃遠足で月島から館山往復で乗ったのがきっかけ(その前から関心はありましたが)だったと思います。鉄道は電車や電気機関車が主で、蒸気の方は昭和50(1975)年からです。

 その頃携わりたいと思っていたのは、鉄道車両か造船、後は重電機(大型のモータや発電機・・・・多分に電車や電気機関車の影響を受けている)でした。その後は仕事関連もあって、工作機械です。

 結局、蛙の子は蛙で今の仕事です。物作りは嫌いではありませんが、もっと違う物を造りたかったと言うのが本音です。

 ライブスチームの模型に手を出したのは前記の通り昭和50年からです。以前からC622の1/12縮尺のモデルをやっている人の図面を入手したのがきっかけで。少しずつ始めましたが結局10年程でやっている暇が無くなってお蔵入りのままです。

 当時伝手を頼って実物の図面のコピーを入手したり、先達の運転会や商店街の催事での運転、同好の士の集いなどに顔を出したりしました。結局中途半端のままとなっていますが、この間の様々な経験が結構今の仕事に役立っている面もあります。

【溶接が好きだ、ガス切断が好きだ、・・・・・・・】
 入社面接だったら即採用!、風師さんが20歳代に戻って目の前に現れたら大歓迎ですね。今のままでも、もし至近距離にいたら、頼みもしないのに毎日の様にやってきて興味津々、好奇心100%の眼差しで見たり、聞いたり、触ったり、動かしたり、そのうちこれまた頼みもしないのに何かを作り出したりするでしょう。給料を払わなくても物作り(敢えて仕事とは書きません)をしてくれるかも知れません、虫のいい話です。
 
 私自身この五十数年間を振り返ってみると、「頼みもしないのに毎日の様に・・・・・・・」をずっとやってきた様に思います。親、兄妹に強制されて何かを始めたという記憶はありません。

【更に夢想は続く・・・】
 当地なら、線路を引く場所はある。直線で175m、円形で75×95mは可能、整備、収納庫等の設置場所はある。設備も、作る能力も(一応は)ある、無いのは費用と時間と気力(意欲・願望と言ってもよい)。

 このうち、どうにもならないのは、「時間」、これらを企業や行政としてではなく個人ベースで実現するにはべらぼうな時間が掛かります、風師さんのおっしゃる20年では到底足りません、50年でもどうか?少し前、横浜でライブではない鉄道模型を作っていた方が90何歳かで亡くなられましたが、ご本人にとっては未だ未完だったと思います。ご子息が継承されている様です。

 名前は記憶していませんが、ある芸術家が、話されていました、要旨は「色々と経験をしてきた、失敗もしたし成功もした、これからやっと良い仕事が出来ると思う様になってきた。でも体の方がもう持たない。人の一生は短すぎる」

 私もこの歳になってこの言に納得です。あと2倍は必要かと。

 以下主題から外れます。

【固定資産税】個人情報まで開示頂いて恐縮です。
 通常第一期分は端数分だけ多くなりますが、各期同一としても大差ありません。税率は当地と変わらないと思いますから24,000×4=96,000・・・96,000/0.014=6,857,100(課税標準額) 家屋詳細は不明ですが大雑把に 1,857,100 とすれば、土地は 5,000,000 宅地、農地で評価額は異なり土地境界もはっきりとは判りませんがGoogleの写真から推定して約3,000u位はありそうですから、u単価は 1,666・・ざっとこんな所でしょうか

【アセチレンランプ】

(1)ロー付温度について
 普通は銀ローを使います。種類によって相違はありますが約半分は銀ですからそれなりの価格はします。でも普通に使うのなら少量ですから余り問題はありません。溶融温度は低温ローでも650℃位ですからプロパンボンベ直結のトーチで無いと無理でしょう。

(2)ハンダ付してある物にロー付するときの注意
 加熱範囲にある全てのハンダを完全に除去しないと、ハンダの付いている部分の母材が解け落ちる可能性があります。ハンダの溶融温度以上に加熱されると、ハンダと母材が合金化して母材の溶融温度が下がるためです。条件によって異なりますので、何回か試して大丈夫なら良いのですが。

(3)写真を見てパッキンの締め付け部分が随分しっかり作ってあるなと思っていたのですが、やはり鉄道用だったのですね。鉄道用の物は鉄道省(多分国鉄の時代より前かも知れません)の規格で作りますから一般の物よりしっかり作ってあると思います

 以上取り留めもなく書きました、また掲示板にお邪魔します。ただクイックでなくスローレスポンスになったときはご容赦下さい。2017年8月26日 KK5


返信

KK5様
 メールありがとうございました。大論文なんてお恥ずかしい限りです、小生の長蛇文にお付き合いいだいてK5さんこそ、お忙しいのに、他のことなら読み流しで済んだだところを好きな道にかかわること、これは黙っていられないと小生以上の大論文になってしまったのではと、お気の毒に思います(笑)

 K5さんのところは家業がそもそもボイラーでしたね、しかも道具立てと言いこれほどライブスチーム制作の条件に合った環境は他にはありませんね。後継者たちはライブスチームにはご関心はありませんか。二代三代にわたって制作を続けるのも、対象物に現在の電子機器のような陳腐化というものがないので可能ですね。自分で最後までやろうとするとどうしても残された時間を計算してしまいますが、後に続く者がいるとなるとそれを気にしなくていいですから。我が家の場合は小生とその後に続く者との間の時間差があまりにも大きすぎて、将来どうなるのか全くわかりません。後に続く者と言えば道楽以前に家業がありますね、サラリーマンは別でしょうが、企業家はそれも考えなければなりませんね。
 
 人間、結局、体力と頭脳がバランスよくは機能しないようにできているのでしょうかね、ウンと昔に戻ることが出来ても、今の頭脳(ものの考え方)のまま戻ることができれば、それは素晴らしいですが、体だけ戻っても仕方がないことで、それがまあなんとかバランスが取れるのが20年くらい前かなと思いました。ちょうど仕事から解放されるころですし、自分の時間が持てるようになる頃でもありますしね。

 是非やってほしいですね。小生なら、これをすぐに商売の種にして、会社のホームページの脇に本業以外の道楽ページを作って、その進捗状況を随時アップすると思います、ダイレクトでなくて間接的に会社のPRにもなりますし、期限が限られている仕事ではないので、ゆっくりゆっくりやっていけばいいのですから。
 
 ロー付け、小生、酸素アセを持っていて溶接用のトーチもありますから、それを使って加熱することは出来ますが、カセット式の高カロリーバーナーがありますね普段これをストーブの着火などに使っていますが、本来はこういったものに使うもののようなので、これでやろうかと思っています、多分ローでなくてもっと融点の低いハンダだと思うのですが、そうですか、「ハンダと母材が合金化して母材の溶融温度が下がる」のですか、これは知りませんでした、ありがとうございました。
 
 固定資産税についてですが、24,000×4<固定資産税額>25,000×4から逆算すると課税標準額の合計額は大体そんなものですが、我が家の場合はほとんど家屋です、大都市圏では土地の価格が大きいのでしょうが、田舎は土地はほとんどタダのようなもので、農地も少しありますが、ほとんど宅地でありながら、課税標準額で900,000円しない額です(だから税金なんてほとんどタダのようなものです、全体でも大都市圏から見たらタダのようなものだと思いますが)。大都市圏で新築で家を建てると土地と建物両方で税負担が大変でしょうが、田舎では殆どが家屋の税金だけになります(固定資産には減価があるのに、家屋に限っては確か税額はずっとこのままではありませんでしたっけ、減価と値上げ分と相殺するのかなと、昔思ったことがありました、今でもそうでしょうか)。皆さん田舎に住みましょうです。


平成29年 8月27日(日)

 穏やかな一日だった、ただ、昨夜はずっと、夢うつつで寒いなあ、寒いなあと思いながら浅い眠りを続けたので、朝起きて頭がぼーっとしていた。夏姿で寝ていて20℃を切るとやはり少し寒い、本当に寒いのであれば起きて布団を引っ張り出すのだが、そのあたりが実に中途半端で、起き出すほどでもないのでなんとなくずるずると一夜をごしてしまった。朝起きて娘が同じようなことを言っていた。
       最低気温 19.2℃ (02:02)、最高気温 29.4℃ (14:01)

 今日、南阿蘇の阿蘇長陽大橋が開通した、いや復旧した、熊本地震以来1年4ヶ月ぶりだ。これは本当に有り難い、立野地区の人たちの喜びも一入だろう。俵山トンネルといい、阿蘇長陽大橋といい、熊本とのアクセスがどんどん回復しており、南阿蘇が阿蘇の表玄関になった。ここ阿蘇谷にとっても、二重峠ルートと合わせて二本になったので随分と便利になる、有り難いことだ。
 
 それに引き換え・・・・おい!f-JR九州!二重峠越えの代替バスを走らせろ!公共交通機関として社会的な責務を果たせ、車を持っている人間はもうアテにしていないが、車を持たない、交通弱者の高齢者がみな病院に行けないと嘆いているぞ、声なき声を聞け!

 今日も時間を見つけてはマウスピースを口に咥えていた。スムースに音が出るようになって、逆に不安になってきている、音を出すことはそんなに難しいことではないのだろう、じゃあ何が難しいのか、色々ネット検索をすると、なんだか非常に難しい関門がいろいろ立ち塞がっているような気がしてきた・・・・・ゾ。


平成29年 8月26日(土)

 いつ頃から降り始めたのだろうか、夜が明けた時には降っていて、そのあと、ちょっと雨脚が強くなった、レーダーを見ると、雨雲が西から東に大きな帯となって横たわっていた。そして、案の定、その後、Jアラートが警報を発した。「洪水警報」である、河川の下流域の土地ならば雨が降っていなくても上流に降った雨が流れ来ることはあるが、ここは源流域で、雨も降らずに洪水になることは考えられない、まず、大雨警報が出てから、順序として洪水警報だろうが、大雨警報は出されていない、どうもわからん。そしてこの警報は昼過ぎに解除された。警報が出たら必ず被害が発生するような気象情況にならなければならないということではない、無いに越したことはないがそれでもいつも安易に警報を出しすぎる、数年前の「羹(あつもの)」は数十年に一度あるかないかの大雨だったのであって、ちょっと降ったくらいではそうそう起きない災害だったのだ、あまり簡単に「膾(なます)」を吹かないでほしいと思う。そのせいかどうかは分からないが今日予定されていた色々な行事が中止延期になった。今晩は門前祭もあったはずだがこれも延期になった。

        最低気温 22.3℃ (09:11)、最高気温 26.1℃ (16:04)

 Microsoft Outlook 2007の受信ファイルが壊れて、過去のメールの受信録が全部無くなった、10年以上の記録だ。ネット検索で調べたところ、Microsoft社から修復ソフトが出ていて、それを使って元通りに出来たが、手順が結構面倒で、それでもやることは決まった手順なので、こんなものは自動で修復するよにしておけばなんということもあるまい、本当に不親切で驕った会社だ。(写真1写真2

 トランペットのマウスピースを買った。昔からトランペットを吹いてみたいという気持ちは強くあったが、簡単には音が出ないと聞いていて、トランペットは高額な楽器なので、買ったはいいが、音がでない、では済まされないし、たとえ音が出たとしても住宅密集地ではとても練習なんか出来ないと思って、ずっと「やってみたいリスト」の下の方にあった。

 ところが、先日、茅ヶ崎に行った時に、どういう経緯だったか、寺さんとトランペットの話で盛り上がって、お互いにやりたいねと話していたところに、最近、格安のトランペットが幾つか販売されている事がわかって、youtubeなどをみていると、安物はやめておけ、という意見もあれば、普通に使えるし、練習用にも適しているという意見もあって、それは道具は立派な方がいいことはわかっているが、安物でもいいことにしようと思って、買おうかなという風に気持が傾きつつあるが、それでも問題は、果たして音が出るかどうかだ。

 こればかりは、人が吹いているの見ても、あるいは説明だけを聞いても分からない、どういう理屈で音が出るのかも本当には分かっていない、見ていると特に青筋を立てて吹いている風にも見えない、普通の表情で吹いている、体力的に弱い女性が自然に吹いている、どこにどういう力がかかるのか分からない、こればかりは、結局自分で体験してみなければ分からないことなのだ、そこで、マウスピースだけでも買って、音が出るかどうか練習してみようと思ったが、マウスピースひとつとっても、ちゃんとしたやつは結構な値段がする。そんなマウスピースの値段にちょっと足せば安いトランペットが買えてしまうくらいだ。と思っている所に、送料込で580円というマウスピースがあることを知って、これなら、たとえ無駄になってもあきらめがつくなと思って、買った次第である。

 修得計画としては、このマウスピースで音が出せる自信がついたら、安物のトランペットを買って、ニニ・ロッソの「夜空のトランペット」、これだな、これが昔から吹きたかった曲だ、これを練習して、ひと月後に、日没時の夕焼けの阿蘇山に向かって、夜空のトランペットを澄んだ音色で吹くことを予定している。
 
 トランペットは吹けないがホラは吹ける・・・・そうそう簡単に吹けるわけねえだろう、沢山の人がトランペットを始めてそして殆どの人が挫折してやめている。それだけ音を出すのが難しいのだろう。娘はトロンボーンをやっているので、トランペットにも興味があって、さかんに小生に買え買えとけしかける、自分もやりたいので小生が放り出すのを密かに狙っているのかもしれない。トロンボーンもトランペットもマウスピースを使うが、全く別物らしい、それでも娘はトロンボーンでマウピースを使う要領がわかっているから有利である。最近はインターネットで独習ができるし、娘の吹奏楽部の仲間がトランペットをやっているので、頼んで時々出張レッスンを受けようか。何よりの有利な点は、どんな雑音・騒音をだしても、隣近所には全く影響がないので遠慮なく練習が出来るということだ。
 
 というわけで、昨日、注文してあったマウスピースが届いた、早速吹いてみた、全然音にならない。娘が吹くと実にスムースに音が出る、何故なんだ・・・・そこが科学する小生である、頭で考えて、試すこと暫し・・・・音が出てきた、出てきたぞ〜
 
 音が出始めるとドンドンでる、始めの頃はマウスピースに口を当てて、吹くけど音が出るまでいろいろ試行錯誤しなければならなかったが、今や、マウスピースに口を当てると間違いなく音が出るようになった。人間の適応力というのは凄い。それでも片時も離さずに傍らに置いて吹いているのだ。

 マウスピースだけだとちょっと寂しいので台所からジョウゴを見つけ出して、マウスピースに付けて吹いてみた、マウスピースよりは大きな音が出る、気は心である。これで我慢しろ、トランペットを買うまで(買うかどうかはまだ分からないが)。

 でもそもそもトランペットの音は何処から出るのだろう、どこで作るのだろうか、同じ音のオクターブ変化も同じバルブを押すのだろうに。口笛の場合は、これは自分の声帯で作った音だと思う、それが証拠に声で出す音域以上の音は口笛では出ない(と思う)。トランペットの場合は、声帯で作る音ではないと思うので、だから自分の声帯の音域以上の音が出るのだと思うが、ラッパの場合はドミソだけだというがそのドミソだって、どうやって音を変えるのだろうか、どこで音のコントロールしているのだろうか、そこが分からないから、だから今のところは音階は不明でただ音を出しているだけである。多分トランペットは「バジング」だというが、唇の細かな振動の回数で周波数が変化して、その回数の変化が音の高低になって空気を震わせるのだろう、音が出なくて挫折する人が多いと書いたが、どうも音は出るようになっても、高音域がなかなか出ないらしい、ヨシ見ていろよ。

 久しぶりに我が家の三人組、夏子のピアノレッスンで泗水に出かけていった。今までレッスンは毎週あったが、今度月二回になったようなことを言っていた気がする。



平成29年 8月25日(金)

 最終日のラジオ体操、途中に雨がポツリポツリ落ちてきた。そのように朝のうちはちょっと天気が悪かったがその後回復した。
       最低気温 24.8℃ (05:03)、最高気温 29.2℃ (14:06)

 今日で夏休みのラジオ体操が終わった(土日は体操は休みだ)、豆札集落の二人組、皆勤だパーフェクトだった(と思う)、鬼塚組も隣村でしっかりと体操をしたことだろう。来年は薫君が卒業して居なくなるので、豆札では太郎一人だけになる。鬼を笑わせると、来年は鬼塚村も一人になるので、豆札と鬼塚とで別々に分かれて体操をすることになるだろう。そうなれば、公民会前でなくて、我が家の玄関先にラウドスピーカーを設えて、大音響でラジオ体操を流して家族を駆り出すことにしよう。

 なごみ野のオヤジといつも風呂で会って、その度に、太郎を連れてブルーベリー狩りに来いと言われていたが、忙しくて行っているヒマがないと言っていたところ、しょうがないなあと今朝大将自らが立派なブルーベリーを届けてくれた、1キロ以上あった。。早速ジャムを作った。少しペクチンを入れすぎたがよく出来た、早速夕食のデザートにヨーグルトにかけて食べた、美味かった。

 阿蘇市健康推進員のワークショップがあった。小生のように引き続き担当する人たちに混じって新しい顔ぶれも結構おいでだった、今日は、「血管」のこと、そして「血圧」についての研修があった。
 
 注文してあった吉村昭の「蜜蜂乱舞」と「ポーツマスの旗」が届いた
 
 晩飯。豚大根、だし巻き卵、コールスロー、ほうれん草の味噌汁、イチジク、ブルーベリージャム・ヨーグルト


平成29年 8月24日(木)

 晴れ。今日は30℃一歩手前だった。
     最低気温 21.7℃ (01:17)、最高気温 29.9℃ (14:30)

 よ〜やく高校野球が終わって、今朝からラジオにも日常が戻ってきた(あまり静かでもないけど)。

 ラジオ体操
 
 考えてみたら、夏休みのラジオ体操は明日で終わりだ、阿蘇では下界よりちょっと早く月曜日から第二学期が始まる。夕方、学童で、明日が夏休みの学童は最後ですという話を聞くまでそのことに気がつかなかった(こどもたちもラジオ体操、明日最後だと知っているだろうか)。夏休みは明日までなのだが幸いに土日と休日が続くから夏休みの宿題がまだのこどもたち、追い込みはちょっと楽になるのかもしれない(でもないか、その分遊ぶ時間が伸びるだけか)。珍しいことに、夏子はもう宿題は終わっているそうで、こんなこと初めてと言っている。太郎も学童でちゃんと宿題を見てくれているのでこれまたオーケーである。小生が子供の頃は、毎年31日に学科の宿題はおろか、絵日記、工作など全て一日でやった、まさに超人的、神業で自分でも感心していた、毎年その繰り返しだったなあ。

 久しぶりで庭の草を刈る。近々親戚の子供達が遊びに来る、天気がどうなるか分からないが、バーベキューでもやろうかと思っている、だから、そのあたりの草は刈っておかないと。ついでに別の場所も刈ろうかと思っていたが、一旦エンジンを止めて、掛け直したところどうしてもかからないのでやめた。小生の刈払機、温まった状態で切ると、その後、どうしてもかからなくなる、しばらく置いて冷ましてからでないとエンジンがかからない。かぶった状態になっているのだろうか。

 カーバイトランプのシーリング、円形コンパスカッターの一番安いやつをネットで取り寄せてゴム板からパッキングを切り出して取付けた。用心のために外で点灯したが、今度は完璧、漏れは全く無かった、最初からこれをやればよかった。
 
 と思っていたら、別のところから火を吹き始めた。火口につながるパイプがねじ込みになっていて緩んでいたようで、火が漏れている状態でペンチで掴んで閉めたら止まった。
 
 このカーバイトランプは、鉄道用の手提げランプで、ハンドルを回すと、赤と緑とに切り替わる。小生が持っているものは、正面の素通しのガラスがなくなっていて、また手提げ部分の取っ手も無い不完全品であるが、真鍮の醸し出す雰囲気ががいい。部屋で点灯して楽しんでいたら、戻ってきた夏子が、お父さん臭い臭いと言う、小生は気にならないが、娘には嫌な臭いなのだろう、やはり室内では遠慮せんといかんのか。(写真1写真2写真3
 
 それから、もう一つのカーバイトランプ。火口につながるノズルのパイプの根元が取れた。胴体部分は鉄で、パイプは真鍮である。ロウ付けをしないといけないかなあ、と思って、よく見ると、どうもハンダのようだ。火口から遠い場所なので半田でも溶け出すこともないのかもしれない。肌ツヤもハンダでナイフでちょっと削るとやはりハンダのようだ。ロウ付けはやったことはないが、銀ロウだと半田より高温で炙らなければならないと思うが、もしハンダだったら、その先の同じ接合部が溶けてしまうおそれがあるので、とりあえずハンダでやっってみようと思う。考えてみたら電子工作で使うハンダがたくさんあるが、銀ロウなんかと並んで売っているハンダを買ってきてしまった。半田でもハンダゴテでは熱のまわりがよくないだろうから、やはりバーナーかなあ。

 晩飯。煮込みハンバーグ。夏子に晩御飯何がいい?と訊くと、ハンバーグがいいと言う。お安い御用だハンバーグなんて一番簡単な料理だ。それでも小生はちゃんとタマネギ丸々一個をみじんにしてきつね色になるくらいローストして、ハンバーグの生地の中に混ぜ込む、これをやるから、お父さんのハンバーグ、軟らかくて美味しいね、となるのである。


平成29年 8月23日(水)

 カラリと晴れた。全国的に暑かったようだが、ここは、まあ、こんなものか、湿度が低かったので凌ぎやすかった。
    最低気温 22.2℃ (06:11)、最高気温 30.4℃ (14:00)

 ラジオ体操。

 宮崎のじっちゃいのところのラジオ体操も前・後半だけの「キセル体操」らしく、その後半が始まったそうだ。ここに比べたら大群衆だなあ。朝のラジオ体操、気持ちが良いぞ、シャキッとするぞ、子供のラジオ体操だが毎日小生が一番気合を入れてやっている。

 新聞を読むと、最近いろいろとラジオ体操をしないもっともらしい理由をあげているが、小生に言わせたらそんなもん全部ウソだ、要は今の親たちが面倒なだけだ。ラジオ体操をたった15分やるのがそんなに大変なのか、ただやりたくないだけだろう、昔(小生の子供の頃だが)は、今のように白物家電なんか全く無かったぞ、母親たちは炊事洗濯掃除、家事全般全部人力でやっていたのだ、それに昔の日本は貧しくて皆一生懸命働いていた、ろくに休みなんて無かったぞ、今が大変なんてとんでもないことだ。たとえ大変でも夏休み期間中くらい子供を叩き起こしてラジオ体操に送り出したらどうなんだ、今の時代の親たちは、小生たちジイさんたちが育った時代の親たちとはまったくべつものなのだ、ありがたい民主教育の賜物なのだろう。小生の歳でラジオ体操年齢の子がいることが変則的だから、ついつい新聞を読んで余計なことを言ってしまう。

 南阿蘇の長陽大橋が今月27日から開通するそうだ。そうなるとルートが二つになってこちら阿蘇谷方面もかなり便利になりそうだ。今度のルートは57号線を一気に立野まで来て、長陽大橋を渡れば、一応「難所」となるのは京大地震研究所の脇を通ってファームランドから下野に抜ける道だけになる。57号線のミルクロード入口の交差点から立野までは8キロ近くあり、出来たばかりの立派な道路があって、そこまでの道路添いにいろいろな店舗などがあって熊本地震以来ずっとホコリを被っていたけどこれで少しは活気を取り戻すことになるだろう。
 
 ネットに「地方では300メートル先のコンビニに車移動が当たり前? 夏休みの帰省で驚いたこと」というタイトルの記事があった、言われてみると、確かにそうだなあ、300mと言わず、100mもない隣に行くのにもクルマに乗るからなあ、玄関のドアを開けると車があって、行った先で車を停める場所の心配もないからごく自然に車に乗ってしまうなあ、田舎の人は都会の人より歩かないというけど全くそのとおりだ。言われてみてその原因を探ってみた。田舎では公共交通機関が発達していない(ほとんど無い)から、少し離れている所に出かける場合に、バスで行こうだとか電車にしようなど言う発想は最初から全く起きない、バスや電車を利用する場合でもまず「歩き」が最初に来る、歩いてバス停に行く、歩いて駅に行く、である、それが田舎では、「歩き」の先に続く交通機関がないので、まず「歩く」を考えること無く「車」になるのだろう。それが習性となって、どんな外出でも、外出=車という風になるのだろう、田舎では道を歩く人が少ないのはあながち人口が少ないからだけではなさそうだ、道を歩いている知り合いを見ると、なにかアクシデントでもあったのかと思って、つい、どうしました?乗りますかあ?と声をかけるもんなあ、いやウォーキングばい、失礼しました。人間、少しは歩かなければなあ、田舎の人も歩かなければなあ。

 おい!f-JR九州!二重峠越えの代替バスを走らせろ!公共交通機関として社会的な責務も果たさずに金儲けばかりにうつつを抜かすな、今朝の新聞に運行再開の記事が載っていたけど「ななつ星」は阿蘇に入ってくるな、バスを走らせてから入ってこい、阿蘇よ舐められているぞ、みんなもっと怒れ!

 晩飯。炊き込みご飯、揚げ出し豆腐、子持ちカレイの煮付け、モヤシの中華風サラダ、豆腐とナメコの味噌汁


平成29年 8月22日(火)

 晴れ。今日は完全な夏空だった、それでももう空は高く秋の空だった、と言いながら、気温が上がった、暑かった。夜に入って日記を書く段になって調べたら32℃を越えていた。でも数字ほどの暑さは感じなかった。夕方、中岳の噴煙が高く上がっていた。(写真1写真2
    最低気温 22.3℃ (06:23)、最高気温 32.4℃ (16:05)

 ラジオ体操。太郎のやつの姿が見えない・・・遅れてやってきた
 
 カーバイトライト(鉄道用のカンテラの「部分」である)のレストアをしたが、先日作ったパッキンがどうも合っていないようで、接合部から火がでた、また、フタの上部分の水を落としたりするための穴部分のシールもうまく行っていないようでここからも火を吹いた。そういうことを想定して水を少ししか注がなかったので直ぐに消した

 晩飯。ジンギスカン。何にしようかと迷った時には冷凍庫の保存食品から何かを見つけ出す。


以下は日記でなくてヒマネタになる(ヒマネタをいくつかストックしている)。
 我が道楽を「微分・積分」する

 小生の色々な道楽を全部まとめてひとつの形にするとどうなるだろうか、それはなんだろうか。と考えると、それはライブスチーム、蒸気機関ではないだろうか、もっと具体的に言うと、蒸気機関をエネルギー源としたもの、つまり、蒸気機関車、SLではないだろうかという気がしてくる。
 
 蒸気機関車には小生の道楽のあらゆる要素を含んでいるという気がするのだ。小生は別に、鉄道ファンではない、乗り鉄でもなけば撮り鉄でもない。小生の青少年期はまだ蒸気機関車が当たり前に走っていた時代だったので、電化が進んだそれ以降の世代が蒸気機関車に抱くような憧れはそんなには持っていない。トンネルに入る度に目に煤煙が入り痛い目をしたり、シャツが黒く煤けたりすることが当たり前の時代だったので、逆に、電化されて、電気機関車がホームに入ってきた時には、おお、電気機関車だ!と言って大いに喜んだものである、そんな年代なのだ。

 そういった年代でありながら、それでも蒸気機関車には得も言われぬ、魅力がある。それは蒸気の力であの重たい鉄の固まりが動くからだろう、人類が手にした初めての圧倒的な「動力」の集大成だからだろう、今の色々な「力」の原点になるからだろうか、それが電気になるとちょっとスマートになりすぎる。

 溶接が好きだ、ガス切断が好きだ、鉄が好きだ、火を焚くのが好きだ、工作が好きだ、機械加工が好きだ、そして計算に必要な数学も、あまりわからないけど好きだ、レトロのメカが好きだ。そして旋盤やフライス盤などで、ムクの鋼材から精密に部品を切り出す、削り出す、これに非常に憧れを持っている。重たいやつが好きなのだ、クロガネだ、つまり工業だ、飛び散る火花や走る湯玉だ、工業に憧れを持っている。こうして好きなものをひとまとめにすると、ライブスチームがそういったすべての要素を含んでいるような気がしてくるのだ、小生の道楽の集大成のような気がするのだ。

 ライブスチームのキットを買ってきて組み立てる、これも面白いに違いない、でもそれだけじゃあ、すぐに飽きると思うのだ、やはり自分でミクロン精度で車輪一個から削って作っていかなければ、ロッドやピストンを削らなければ、シリンダーやボイラーを作らなければ。
 
 余命がもう少しあって、そして財力があれば(そしておさんどんが無ければ)、よくアメリカ映画などで出て来るような工作室を作ってそこに色々な工作機械を置いてやってみたい。もちろん、設計や技術計算はコンピューターを使わずに、計算尺とタイガー計算器でやる、昔はそれでやったのだから当然出来るはずだ。あと20年くらい昔に戻ることができたらと思うのである。

 更に夢想は続く・・・
 
 そして、敷地内に目一杯レールを引いて自作のSLを走らせる。それをもっと大掛かりにして「うぶやま牧場」あたりにSLランドを作る。常設のレールを敷いて、愛好家が自慢のSLを持ち寄って自由に使えるようにする、それを見に人がやってくる、これは地域の活性化につながる、阿蘇の観光の目玉のひとつになる。
 
 更に更に・・・
 
 今や鉄道は高速鉄道ばかりになって、ローカル鉄道がどんどん消えていく方向にある。それを逆手に取って阿蘇ではローカルに徹した鉄道を走らせる。一番のいい場所は、南阿蘇鉄道だ、地震で大きな被害を受けて半身不随(いやそれ以上、瀕死)の状態だ、なんとか元の状態に戻そうとしている。そこでちょっと発想の転換だ、何も元の状態に戻す必要はないのではないだろうか、fJR九州なんかとは一線を画して独自の路線をいや線路を展開(今でもそうだが)してはどうだろう。
 
 そのために走らせるのはトロッコ列車なんかでなくて、SLを走らせたい。小生は、海外旅行は一度しか行ったことがない、その一度だけの海外、ハワイで乗ったオハフ島だったかな、確かパイナップル鉄道とか言ったな、あれだ。おそらく世界には他にも似たような小さなSLが走っていると思う。SL人吉やSLやまぐち号のような昔走っていた大きな蒸気機関車でなくていいのだ、それだとコストや維持が大変だ。昔軽便鉄道と言っていた小さなSLでいいのだがなあ、とユーチューブなどでライブスチームを検索していると、いろいろな人が趣味でライブスチームをやっている、皆、実際のSLよりは遥かに小さないわゆる「模型」である。なかにはその模型もかなり大きくして、人を何人も乗せて走ることが出来るSLもある、しかしそれでも遊園地のSLの域を出ない。そう思いながら、ネットをみているとあるサイトにどこかの駅らしい場所で実際の大きな機関車の横にオモチャのような小さなSLが並んで写っている。なんだろう、何かのイベントで特別に走らせたのだろうかと思ってサイトを開いててみると、遊園地で走っているような小さな機関車が普通どおりにお客さんを乗せて走っているではないか。あったのだ、小さな機関車・客車で営業運転をしているところが(*)。更に、調べると、他にもあった。小生はハワイのパイナップル列車しか知らなかったが、立派に公共交通機関としても運転してるところがあったのだ。これだこれだ小生が描いていた絵は。南阿蘇鉄道をこの姿に変えるのだ。阿蘇カルデラは外部世界とは隔絶していて独自の世界を持っている、そして阿蘇山というりっぱなホンモノの「ジオラマ」風景が広がっている。

 何より、路線を引く土地を新たに確保しなくて良い、インフラはあるのだ、これが一番の強みではないだろうか(線路の幅は変えなくてはならないが)。
 
 調べてみると日本でも実際に模型ではないホンモノのSLを作る会社だってある 。 南阿蘇鉄道はトロッコ列車なんかまどろっこしい、蒸気機関車を営業運転するのだ、数十億円かかると言われている白川鉄橋の再建はそれからでいい。そうすれば観光の大きな目玉になると同時に公共交通機関として地域住民の足も確保できる。蒸気機関車の営業運転を文字通り軌道に乗せてから改めてそのための資金獲得を考えれば良いのだ。そのためには、蒸気機関車を買ってからさあ商売を始めますよ、ではなくて、その前の前の段階から、企画段階からプロジェクト化して、そして、蒸気機関車を運転するぞと宣伝して、そこから実現に向けてメデアなども巻き込んでさまざまなことを商売に結びつける、いろいろな商売と結びついて裾野の広いプロジェクトになりそうだ。南阿蘇鉄道を含めて大きな「株式会社南阿蘇」を立ち上げるのだ、南阿蘇をひっくるめてテーマパークにしてしまうのだ、SLとはそういった可能性を秘めているという気がしてならない、などと資金調達や採算性など全く無視してそういったことを想像した。出来ないかなあ、そもそも今までこういった切り口で検討したことなどあるだろうか。(人が暑いさなか、汗みどろになって働いている時になんとバカなことを書いて、と石が飛んできそうだが、皆んなが一日の仕事を終えて酒を飲んでいい気持ちになっている時間帯に小生は酒を飲む代わりに書いているのだ。)(10/4日記にこのパート2)

(*)
Romney Hythe and Dymchurch Railway 

https://www.youtube.com/watch?v=t8OB8YkGSO4
Whiskey River Railway 

f-JR九州!二重峠越えの代替バスを走らせろ!


平成29年 8月21日(月)

 晴れ。午後から雨方向か雲が多くなった、夜にはひと荒れくるようなことを気象庁は言っているが。
     最低気温 20.7℃ (04:45)、最高気温 27.7℃ (10:50)

 ラジオ体操
 
 今朝ふと気がついた、固定資産税第二期分の納付を忘れていた、納付期限は7月末だったはず、慌てて市役所の窓口に飛んでいって納付してきた、たとえ飛んでいっても督促手数料を100円取られた。督促手数料は文字通り督促にかかる事務の手数料のことで、20日を過ぎると督促状を発送するようで、今朝気がついた時には小生のところにはまだ届いていなかったが午後その督促状が届いていた。これは督促手数料だから、このほかに延滞金がかかるはずだが、これはどのようにして納付するのだろうか、後日納付書でも届くのだろうか、最近は色々な納付金が特別徴収になったので、普通徴収の納付金のことを忘れていた、やいや初めてこんな失態を犯した。

 村の行事の「お大師さん、お地蔵さん、お薬師さん」があった。村の各所にそれぞれ分かれておいでの御三尊をまとめてお祀りする日だ。毎年、妙法寺の庵主さんが導師となられて行われる。昔は別々の日だったのが、なんらかの理由でまとめられたのか、もともと同じ日にあったのかは分からない。薬師如来は我が家の前の山道を少し登った所に薬師堂があって、そこに安置されているが、道が急で登りにくく、庵主さんも高齢で危険なので、坂の下で経を唱えておいでだった。それから、村の北坂梨側の外れに、地蔵尊と弘法大師像が安置されていて、村の座元の女性たちも一緒にお参りをして、どいうわけだか、弘法大師像だけを公民館に一日だけ安置して、村の人達全員がお参りをする。

 この日は座元の人たちが、小豆飯のお握りと完全な精進の料理を作ってくれて、村の人達は自分の都合に合わせて三々五々お参りに来て、お斎としてそれを頂戴する。この日は世帯主だけでなく、子どもたちも全員がお参りをして精進料理を頂戴する。時間的にこれがこの日の夕食になる。
写真1写真2写真3写真4写真5

 年に何回かこういった村の行事があるが、今日の行事で今年は最後になるかな、そうだ、敬老の日のお祝いの集まりがもうひとつ残っている。


平成29年 8月20日(日)

 晴れ。今日も真夏日だったようだが、湿度のせいか暑さは感じなかった。
     最低気温 19.8℃ (05:13)、最高気温 30.9℃ (14:10)

 数学の世界に「ネイピア数」というものがある、文系としては、ネイピアという名前だけは漠とは聞いたことがあるがなんのことだか全く知らなかった。最近計算尺や対数の面白さから数学の世界に足を踏み入れて、対数を勉強していても次々に派生して、関連して、いろいろな数学が出現してきて、そのたびに、ネットで調べたりして少しずつ分かろうとしている。義務でやっているのではないからこれが実に楽しい、学徒諸君は勉強のスケジュールがあるから同じところで足踏みをするわけに行かないから、楽しんでいるヒマは無いだろうが、こちとらは趣味でやっているので、時間がかかっても一向にかまわない。やっているうちに導関数という言葉が出てくる、微分が出て来る、極限が出てくる、次々にわからにことが出てきてその度にインターネットで自分に合った解説を見つけてきては理解に努めている。この歳になってようやく微分・積分が分かってきた。インターネットには探すと自分の頭に合った解説があるので時間はかかるが少しずつでも理解をすることができる。インターネットとは素晴らしいツールである。これがインターネットの無い時代であれば図書館で調べるなり、先達に教えを請わなければ分からなかったことだ、それも膨大な時間がかかったろう。
 
 娘は中三だから今小生がやっている部分はまだ学んでいない、高校に入ってからだろう、それでも中三の数学でも小生にはわからないところがある、反対に、小生が最近学んだことから教えてやることもある、「お父さん、どうしてこの式の分母のルートに同じルートを掛けるとね?」「それは分母のルートを取ってやることで計算が楽になるからだよ、分母にルートを掛けると同時に分子にも同じルートを掛けているから値自体には変化がないだろう?これを有理化と言うんだよ」実にすんなりと「有理化」などという言葉が小生の口から出てきた、別に小生は知ったかぶりをしないで、娘に、「最近お父さんも勉強していて知った言葉だよ」と言っている。娘が高校に入ってからはどんどん数学も難しくなるだろう、その時になって少しは分かっていないとな。娘が高校に入って、対数を学ぶようになった時に、「計算尺」を与えて対数の理解が進む一助になることを今から楽しみにしている。そして、高校で計算尺の有意性を広めることができればと思っている。
 
 で、ネイピア数だが、曰く「自然対数の底である」、曰く「指数関数 y=a^xの切片における接線の傾きが1となる時のaの値である」、曰く「ネイピア数eを底とする指数関数y=exは微分しても姿が変化しない」・・・・・などなどネイピア数の説明の仕方にはいろいろある。それら全部大体分かってきた、ただ他人にわかりやすく説明をするためにはもっと理解を深めなくてはならない。

 なんとなく一番わかり易いところで、数式を一切使わないで説明すると、預金金利の複利計算に関して。一般的に金利は「年利」だから、1年預けた時には元金に元金×利率で計算した利息が戻ってくる。そのまま預け続けると2年目には、今度は、1年目の「元金+(元金×利率の)利息」が次の年の元本になる、だから1年目より2年目のほうが元利金は増える。3年目にはさらに増える。これが複利計算である。これを仮に、1年ごとの計算でなくて、同じ金利で半年ごとの複利計算に変更したら1年後はどうなるか(利率は当然半年だから年利の半分になるが)。計算式は省くが、1年複利で計算するより、半年複利で計算したほうが、1年後の元利金は増える。それではその期間を3ヶ月ごとに、いや1ヶ月ごとに、という風に精算期間を短くすると、これも元利金は増える。じゃあ更に更に、1日ごとに、いや、1時間ごとに、えい、1秒ごとに、と計算期間をどんどん短くして、それを無限に短くしていくとどうなるか、それでも増え方は小さくなるが(極端に小さくなるが)増えてはいく。しかし増えていくけど最終的に、2. 7182818284 5904523536 0287471352 6624977572 4709369995 9574966967 6277240766 3035354759 4571382178 5251664274 2746639193 2003059921 8174135966 2904357290 0334295260 5956307381・・・・・無限に続くから「最終的に」、という言い方はオカシイが、そして実際の元利金の計算だからそんな端数までは計算されないから、2.71818・・倍以上にはならないのである。この2.71818・・をネイピア数と言う。
 
 ネイピア数とは実に摩訶不思議な数字である。ネイピア数を調べているだけでいくらでも時間が経ってしまう、今日はそういったことを一日中やっていた。
 
 今日の日記、実にアカデミックだなあ・・・・

 そうそう、今日は娘の誕生日だった、あっという間に高校入試を迎える年齢になった、あいつは全然勉強しないけどどうするのだろう。(今晩は特に晩餐という献立でもなかった、昔人間としてはちょっとさびしい、だんだんそのような習慣が薄れていっている・・・情緒の問題だな。)


平成29年 8月19日(土)

 晴れ。日記を書く段になって今日の気温の記録を見たところ、30℃を軽く越えていたようだが、実感としては湿度も低かったのだろう、全く暑いとは感じなかった。
    最低気温 20.4℃ (04:54)、最高気温 31.3℃ (14:22)

 日本版GPS衛星「みちびき」の3号機がH2Aロケットの35号機で打ち上げられた、そして当然のごとく成功した、もうニュースではなくなった、今回の35号機で成功は29回連続だそうで成功率は97.14%になるのだそうだが、34/35だと97.14%になると思うのだが、どういう計算になるのだろうか。いずれにしても最初のうち失敗しているから、今後、いくら成功が続いたとしても、限りなく100%に近づくことはあっても、この計算方法を続ける限り未来永劫100%にはならないのか。まあ珍しくなくなったとは言え、やはりメデタイ、特に近隣国で怪しげなロケットを打ち上げているので、イザとなったらこっちも黙っちゃあおかねえぞという気持もこもっている。

 今日も道楽色々で過ごす。
 
 今晩は内牧の方で阿蘇の祭りがあり、子どもたちは母親に連れられて出かけていった、狭い範囲だがちょっと阿蘇の上空に雨雲がかかっている、降られなければいいがと思っている。(さっさと日記を上げてPCをシャットダウンするので帰って来ての結果までは今の時点で分からないが、この祭りの時は毎年だいたい雨に降られる事が多い)。
 
 珍しく今日は写真が無い。


平成29年 8月18日(金)

 晴れ。今日は全くにわか雨の心配もなかった。雨雲レーダーを見ると完全に雲がかかっていなかったのは九州だけだった。
     最低気温 22.8℃ (06:11)、最高気温 29.1℃ (14:38)

 ラジオ体操

 宮崎のじっちゃいのブログの、彼の地の見渡す限りのひまわりが美しい。これが人口密集地の近くにあれば見物客の大混雑大渋滞間違いないところだろうけど、地方にはこんな風景がごく普通に広がっている。いつも思うことだが、ヒマワリは全部が同じ方向を向いて咲くから面白い。調べてみると、成長期には太陽を追って向きが変わるそうだが、開花期になると、地形などによって東か西方向に咲く方向が固定されて、それ以降は動かないそうだ、それにしても一斉に、だからなあ。

 今日は村の行事、妙見祭があった、この祭りの謂れがよくわからない。(写真1写真2写真3写真4



平成29年 8月17日(木)

 今日は夏空が広がったが、それでも、もうなんとなく秋の空めいていた。昼過ぎと、夕方とにわか雨が降った。(夜になっても時々ザッと降っている)。
       最低気温 21.9C℃ (05:01)、最高気温 29.6℃ (14:21)

 ラジオ体操。ああ、朝は眠いなあ・・・
 
 宇治歯科に歯の定期メンテに行った。予定表に記入漏れで、今日であることを忘れていて、偶然気がついて危うくセーフだった。

 随分昔から、事あるごとに、寺さんに面白から読めと薦められていた吉村昭の「海の史劇」、今回の三笠訪問を機に購入した。日本海海戦の戦記である。この本は図書館には無かったので、Amazonで探したところ、中古で154円、送料257円で出ていたので新品はやめて、これを買った、と言うより、もう絶版かと思っていたのだが、よく調べるとまだ絶版にはなっていないようだ。今回の中古品は新品に近い品物だ。
 
 古い道具のレストアをした、カーバイトランプのガスが発生する容器部分のパッキングである。パッキンが効かないとガスが漏れて、火口だけでなく、その隙間からにも火が点くので危ない。この容器に合うパッキンが色々探しても無い、ネットで探してもこのサイズが無い、いろいろ調べると、液状のパッキンがあるのがわかったので、それを買ってきて、溝に流すのだが、均一に流すことが出来ず、何度も失敗して、最終的に、四角なゴム板を買ってきて、サイズに合わせて切り取って自作でパッキンを作ってはめたところようやくシールが出来た、最初からこれをやればよかった。
 
 晩飯。天ぷらを揚げた(ジャガイモ、ナス、タマネギ、エビ)、コールスロー、豆腐と油揚げの味噌汁。


平成29年 8月16日(水)

 朝のうち雨が残る、その後、薄日がさすまでに回復。聞くところによると、東京方面は8月に入って以来連続で雨空だそうだ、ということは、小生が葬儀で上京したのが8月1日だったので、あの時以来、毎日雨が降っているということになるのか。
    最低気温 23.5℃ (03:24)、最高気温 27.7℃ (12:22)

 ラジオ体操。丁度雨が上がったころに体操が始まったが、第二に入るころからまた強い雨が降り始めて、急きょ屋根の下で体操をした。

 お盆明け、今日から仕事の所が多いのだろう、中には、今週いっぱいのところもあるようだが。太郎も今日からようやく学童に行ってくれた。夏子は休みで今日も一日宿題をやっていた。小生は「休み疲れ」で、なくて、「休日疲れ」で半ば放心状態、道楽の道具類をいじったりして過ごす。

 晩飯。鶏すき、だし巻き卵、コールスロー、ジャガイモとタマネギの味噌汁。


平成29年 8月15日(火)

 ほとんど雨の一日。それより前、深夜、午前三時ころ、またJアラートが洪水警報を流していた、大雨警報が出ていないのにどうして洪水になるのか、レーダーを見るととても洪水になるような雨雲はなかった。結局朝には解除されていた。警報が出たので深夜なのに自主避難所開設され、解除とともに閉鎖された、一体何なのだ。
     最低気温 22.8℃ (01:43)、最高気温 25.8℃ (13:04)

 弘子従姉一行、旅館を発って次の目的地に向かう前に我が家に寄ってくれた。そして元気でまた会える日を約束して、出発していった。今日は確か人吉方面に行く予定だったはずだが天気は回復しただろうか、SLは走っただろうか。(写真1写真2写真3写真4写真5
 
 太郎は今日までお盆休み、夏子は、中三なので先日のマーチングを最後に部活は一応引退状態で、基本的には夏休み中家にいる、ねじり鉢巻で宿題をやっていた。
 
 晩飯。煮込みハンバーグ。昼飯はオムライスを作ってやった。

 お盆の送り、ご先祖様を15日の夕方に送る場合と、16日の朝送る場合とあるようだが、我が家では従来16日の朝、山まで送っていたが、去年あたりから天候のこともあって、玄関先で送り火を焚いて送っている。今回も明日の朝は太郎の学童もあり、天気もハッキリしないので今日の夕方送った。送り火はオガラを焚くのが一般的だと思うが、この地の風習はどうなんだろう、送り火なんか焚くのだろうか、今日はオガラに代えて線香を焚いて送った。煙が出れば線香でもいいだろう、線香の煙が「きんと雲」代わりだ。


平成29年 8月14日(月)

 晴れ。午後に行くに従って曇りはじめ、時々ポツリポツリと雨が落ちていたが、今夜はまとまった雨になるという。
    最低気温 21.9℃ (05:47)、最高気温 25.9℃ (12:51)

 お盆期間中、村のラジオ体操はお休みである。その代りと言うわけではないが、坂梨のヘッドクォータ的存在の坂梨公民館の主催で、元坂梨校区を対象にしたラジオ体操大会がある。事前PRが足りないのか、豆札あたりまではその情報は流れこないが、たまたま昨日公民館前を通りかかった際に看板でそのことを知ったので、今朝、太郎を連れて参加した。
 
 6時半の数分前に公民館前に着いたが、主催者側の大人が数名居るだけ、子供の姿が全く無い。主催者側にも少し焦りの色が窺えたが、ラジオ体操が始まるころになると、ようやく子どもたちとその親御さんたちが集まって、少子化過疎化の坂梨としてはまあまあの頭数が揃って、ラジオ体操が始まった。いつも顔見知りの子どもたちの顔が見えないので、その兄弟たちにどうしたの?と尋ねたとこり、まだ眠っとる、という答えが返って来た。最近の子どもたちは夜更かしに慣れて、朝起きは辛いのだろう。太郎もようやく叩き起こしたくらいだ。逆に、親御さんの帰省で一緒にやってきた遠方の子どもたちも参加していたが、終わって、親御さんが、ああ、気持ちよかった、来て良かったと感想を述べて帰っていった。ラジオ体操の後、恒例の風船飛ばしをした。そしてオミヤゲに花火をもらって帰ってきた。

 ラジオ体操大会 連続写真 (1/2)
 ラジオ体操大会 連続写真 (2/2)
 
 婆様が生前よく、私が死んだらトンカツを供えてくれと冗談に言っていたのを思い出して、今日からカミさんは仕事なので、昼間、小生がポテトサラダを作ってトンカツを揚げて、仏壇に供えた、そして、我々三人も相伴して、昼から豪勢にトンカツを食べた。そうか小生のトンカツ好きは遺伝だったのだ。
 
 仏壇にイリコが供えてある、なんだこりゃあと言うと、太郎がシマの分だと言う、いや参りました。
 
 午後も大分過ぎた頃、JLZ御入来。MQY局のお宅に初盆参りに伺った帰りだということだった。
 
 お盆になると妙法寺の庵主さんが豆札の家々を一軒ずつ回ってお経を上げてくださる、庵主さんが打ち鳴らす団扇太鼓の音で、今どのあたりにおいでだだ大体わかる。庵主さんはあちらの家、こちらの家と、話がはずんでいつも我が家は夕方近く一番最後の方になる。(写真1写真2)
 
 先日、義従姉の道子姉の葬儀の際に泊めてもらった横浜の従姉の弘子姉が息子の洋君夫婦と一緒に九州旅行のついでに阿蘇に寄ってくれる。我が家での接待は大変だろうと気を遣ってくれて、前回もそうだったが、一行の宿泊する宿に我々家族を招いてくれて、そこで美味しい料理を頂戴した。今回は内牧温泉の蘇山郷という旅館、この旅館は、小生がここに家を作る際に、事前調査などで阿蘇を訪れた際に二度ほど泊まったことがある、それももう十数年前のことだ。(写真1写真2写真3写真4



平成29年 8月13日(日)

 晴れ。
    最低気温 19.4℃ (05:00)、最高気温 30.3℃ (15:26)

 朝食後、太郎と二人でご先祖様を迎えに山に登る、昨日は「子どもたち」と山に登ると複数形で書いたが、そしてその予定だったが、単数になった。前日倒木を取り除いた山道を気持よく墓地に向かった。般若心経を唱えてから、太郎と墓石ひとつひとつに閼伽水をかけて、山を下ってくる時に、太郎が「おばあちゃんを連れて帰るんだよね」というから、「ご先祖様全員だよ、何十人もおるよ」と言うと、「ひぇー」と言って、「じゃあ皆んなおんぶして降りる」と言って背負う格好で山を降り始めたので、「心の中で思っていれば良いんだよ」と言って普通の格好で山を下ってきた。途中、妙法寺の日達さんのお墓にお参りをしてから庫裡の前を通ると、庵主さんが出ていらして、アイスキャンデーを頂戴したので、二人で齧りながら下ってきた。お墓でお線香をひと束まとめて焚いている時に上がる煙を見て太郎「煙がいつものと違ってなんとなく人の形をしていた、あれがご先祖様ばいね」、面白いやつである。

 家に帰り着くと、太郎が「シマも連れて帰るばい」というので、敷地内のシマのお墓にもお参りをした。太郎は今度は胸の前にシマを抱えるようにして歩き始めたので、「心のなかでね」と言ってやった。

 昼過ぎに、円通寺の智道和尚がお経をあげに来てくださった。今日はお寺さんは「師走」だ。
 
 その後で、「初盆参り」にで出かけた。ここではご近所やお付き合いのある初盆のお宅には皆さん初盆参りと称してお参りに伺う習慣が他所の土地より盛んで、毎年、朝から、そのための人の行き来がたくさん見られる。小生は今年は、MQY局の母上となごみ野の母上のお二人の初盆参りに伺った(他にも初盆のお宅あったかなあ、忘れていないかな)。お付き合いの多い人は十軒くらい回る人も居る。出かける時に好奇心旺盛の太郎が「ボクも行く!」というので、二軒とも太郎も懇意にしていただいているお宅なので一緒に連れて行った。
 
 今日は朝から、夕方まで、お盆特集の一日だった、近年、近しい人達がどんどん向う側に行ってしまう、向こう側のほう賑やかだろうな・・・・・

 お盆の一日 連続写真


平成29年 8月12日(土)

 今朝、肌寒さで目が覚めた、気温が20℃を切っていた、そろそろ秋の気配か。今日は雨の心配は全く無かった、日中、気温が30℃を越えたようだが、結構外にいた時間が長かったが実感としてはそれほどの暑さは感じなかった、湿度が低かったからだろう。
     最低気温 19.3℃ (04:45)、最高気温 31.5℃ (14:44)

 遅い朝食が終わって(小生は一人早々と済ませていたが)太郎に、お墓に行く途中に倒れている木を切りにいこうかと誘いをかけると、行く!行く!太郎、こういうことが好きなのである、冒険なのである。この杉の木は数年前の台風で倒れて、墓に行く道を塞いで、そこを通るときは木の下にできた隙間をくぐっていつも行き来していた。くぐるたびに、切ろうかと思いながら、通り過ぎると、そのうちそのうち、になって、とうとう今日まで倒れたままになっていた。いつからだろうと思って、日記を遡ったが見つけることができなかった。これでようやく墓に登りやすくなった、もうこの山道を登るのは我が家だけになった。(写真1写真2写真3写真4)
 
 我が家の墓掃除は昨日終わったが、もう一基、分家の墓が八千場霊園にある、分家の墓があることは数年前に知ったのだが、ご縁者が遠くにお住いなので、お盆やお彼岸の時に努めて草を刈るようにしている。昼から草を刈って、香華を手向けておいた(香は無かったが)。(写真1写真2

 我が家でも普段疎かにしている仏壇を掃除して花を生けて、供物を供えた、明日、朝、子どもたちとご先祖様をお迎えに山に登る予定だ。

 ここ数日、玄関先を映している動画カメラの具合が悪くとうとう動かなくなったので、とりあえず取っ外ずして部屋に持ち帰って診てみる。もし駄目なら、全く同じものがもう一台あるので、これを使おうかと思って、原因は不明ながら、完全に初期化をして、再設定をしたところ、なんとなく動き始めたので、しばらく仮設でヒートランをして様子を見ることにした(防水処理をしていないので降られると困る)。こんなカメラは普通の家には無くて、それが当たり前なのだが、普段これを動かしていることに慣れると、無いとなると非常に不便を感じるものである。


平成29年 8月11日(金) 山の日

 朝のうち(昨夜から)、時々雨が降る、その後、晴れる。今日から実質的なお盆休みだ。
    最低気温 23.1℃ (07:13)、最高気温 29.2℃ (15:55)

 墓の掃除をしなければ、しなければと思いながらなかなかその機会がなく、いよいよ後がないので今日するつもりでいた所、朝から天気がハッキリしない、この分だと今日も無理かなと思っていた所、その後、天気が回復したので、午後から山に登って三時ころまでかかって墓掃除をした。「山の日」って一体何をしたらいいの?という国民の声があるそうだが、小生は、今日ちゃんと山に登った。

 我が家の墓地は、最近家の前に出没する猪公が山を下ってくる時の通り道にあたり、作業中は刈払機のエンジンが唸っているからいいものの、エンジンが回っていない時にはシーンとして静かだから、敵さんも小生がいることに気が付かず、「出会い頭」になるといけないので、時々声を出したり棒で石を叩いたりして注意喚起をしながら作業をした。ヒグラシの声がうるさいほど頭の上から降っていた、シーズン始め、今年はヒグラシの数が少ないと思っていたが思い過ごしだったようだ。

 我が家の墓地の周辺の墓地は管理が大変だから一軒一軒と下に墓地を移して、とうとう、周りは我が家だけになってしまったようだ。小生も近い先祖の墓をDIYで敷地内に作ろと思っていながらなかなかそこまで手が回らない。
 
 今日、またボンのワイヤーが切れてしまったので、スリーブで切れたところを繋いでおいたが、やっぱり新しいワイヤー買ってやろうか(ボンは新しいワイヤーを買ってもらっても嬉しいわけはないだろうが)。

 今日は熊本県マーチングフェスティバルがあり、夏子は一の宮中学校から参加するので午前中早いうちに出かけていった、カミさんと太郎も昼前には出かけていった、本番は夕方からだそうだから、この暑いのにご苦労さんである。今年の会場も今までと同じ県民総合運動公園陸上競技場で行われるが、最近各地で命名権とやらを企業が買いって愛称で呼ぶことが多いが、ここは何年間か「うまかなよかなスタジアム(縮めて、うまスタ)」と呼ばれていて、ようやくその名前に馴染んだと思ったら、また名前が変わった、今度は「えがお健康スタジアム」というらしいが面白くも可笑しくもない名前だ、ユニークな名前が無くなってつまらなくなった、命名権の商品化も考えものだ。


平成29年 8月10日(木)

 晴れ、時々にわか雨。
    最低気温 24.9℃ (03:27)、最高気温 28.8℃ (13:54)

 ラジオ体操
 
 今朝も太郎を学童に送る。

 いくつか家の用件があり久しぶりに山を降りる。ついでに光の森で映画を観てくる。「トランスフォーマー最後の騎士王」。確か前回観て面白かったので今回も観た。しかし、最初の方で眠たくて眠たくて、必死で起きていたがウトウトしてハッと気がついたりと大変だった。ということは面白くなかったということか。確かに自動車などが全く違和感なくロボットに変身する仕組みが、どうやって撮影するのかこれが不思議で前回からそれが面白かったのだが、流石にそれだけだと飽きてしまって寝てしまったようだ。それでも今のハリウッドの特撮はこれはもう驚異的で実写か特撮か全く分からないのでいつも凄いなあと感心してしまう。
 
 それからハンズマンに最近加わった小生の道楽で使う道具のパッキンというかOリングを求めに寄った、現物を持っていって合わせたつもりが、どうも今ひとつ違うようだ、パッキンやオーリングなんて何種類もあるが、この店には断面が丸いやつしかなくて、これだと合わないなあ
 
 その他に家の用件2つほど。4時前に戻ってきて、円通寺さんに寄ってお盆のお経をお願いして、太郎を迎えに行った。

 晩飯。豚肉のムニエル。時間がない時、思いつかない時、これに限る。
 
 ボンの小屋周辺を撮っている動画カメラ、ちょっと具合わ悪いようだな、動かないな。


平成29年 8月 9日(水)

 曇り、午前中、一時激しい雨。
    最低気温 23.0℃ (10:13)、最高気温 26.4℃ (07:49)(変な温度推移・・・)
 関東地方は殺人的な暑さだったようだ、東京の最高気温とここの最高気温差は10℃以上あった。

 ラジオ体操。ちょうど体操が始まる頃、雨が激しく降ってきたので、今日は誰も出てこないかなと一応準備して待っていた所、体操が始まる直前に雨がやんで、いつもの豆札集落のメンバーで体操をした

 午前中、一時激しい雨と雷鳴が聞こえたが直ぐに通過してその後は曇り空。こんな天気図の日もあるのだ。
 
 太郎は今日からまた元気に学童に行った、今朝は小生が送っていった。夏子は今日は在宅、一日中、宿題だろうか机に向かっていた。
 
 午前中、E鴨氏御入来。

 カミさんいやに早く帰ってきたので賄い方は棄権する。


平成29年 8月 8日(火)

 晴れ。
    最低気温 23.7℃ (03:55)、最高気温 28.8℃ (14:34)

 台風5号、まだ新潟付近にいる、本当に息の長い台風だ、日本滞在も非常に長いが、それにしては、あまり大きな被害が出たようには聞いていない、不思議な台風だった(まだ過去形は使えないか)。
 
 ラジオ体操
 
 太郎、今日も、学童保育を休む。まあ、ズル休みだろう、ゲーム機は絶対に見つけられない所に隠してあったので、さすがに家で過ごすのにも飽きた頃だ、明日には学童に行くだろう。

 午前中、家に沿った公道の側溝脇の草を刈っておいた、この部分は行政の管轄だが、お盆も近いことでもあるし、サービスだ。年によってはお盆の頃、行政が草を刈ることもあるが、あてにならないのでやっておいた。まだ墓の草刈りが残っている。
 
 夏休み中、こどもたちに開放されている小学校のプール監視の当番があった。坂梨小学校の時と違って、保護者数が多いので一回限りの監視当番だった。小学校のことは基本的にカミさんがやっているが仕事なので、小生が出た。新設の小学校なのでプールも素晴らしく立派である。であるが、写真は撮らなかった。なんとなれば、坂梨小学校時代は、先生も児童も保護者も皆さん顔見知りで、小生が写真を撮っていても、アイツは怪しいと思われることは無かったが、小学校が統合された今、坂梨勢は新しい小学校では少数派で、しかも小生は小学校にはほとんど顔を出さないので、そんな小生がプールサイドで写真などを撮っていると、どのような誤解を受けるかもしれない、瓜田に履、李下に冠、である、だからカメラを持っていかなかった、最近はとかくに面倒な世の中だから。

 晩飯。ナスと挽肉のはさみ揚げ。いやあ、ちょっと沢山揚げすぎたかなあ。


平成29年 8月 7日(月)

 台風5号
    最低気温 22.6℃ (02:30)、最高気温 29.3℃ (14:33)

 ラジオ体操

 台風5号、言ったとおりだ、眠っていて分からなかったが、我が家周辺ではソヨリとも、いやソヨリくらいは吹いたかもしれないが、熊本では特に吹き荒れることもなく大雨になることもなく台風は通過していった、台風が九州の東側を通過する場合、小生のような素人でも知っていることだ、それなのに進路変更前に出された暴風警報がずっと出放しだった、そして今朝になってようやく発表された熊本の警報解除報は台風が近くを通過した宮崎の発表よりも遅かった。台風だ!それ無条件で警報だ!でなくて、もっと現状に合わせて的確な判断をしてほしいものである。

 そして、一夜明けて、既に台風も去って、暴風警報も解除された後になってからの、この広報(小生のところは今日ではないが)。役所という所がいかに仕事をしないようにしないようにしているかがよく分かる。中止のことは昨日台風接近前から決めていたことだろうが何十万人も住民が住む大都市ではあるまい、もうとっくに三万人を切っている小さな市なのだ、住民に直結しているこのサービス、何故予定通りに実施しようかということにエネルギーを使わないのか、台風がもう来ないことは昨夜からわかっていることだろう、どうしてこの程度のこと臨機応変に対応できないのか、中止ありきだろう、体のいいサボりと言われても仕方がないだろう、ワカラン。学童保育は昨日のうちに予定通り今日の開園が決まっていたぞ(こちらは公営でなくて民営だ)、それとも何か急に舵が切れないような理由でもあるのか、そこのところ是非聞きたいものだ。
 
 その学童保育、せっかく開いてくれたのに、太郎のやつ、軽い喘息症状があるので、休ませた。太郎は昼飯も食わずに一日中寝ていたが、夕方になって、回復して、元気になった。
 
 夏子の方は、先日の合宿で雨のために練習ができなかった(阿蘇郡市合同)マーチングの遅れを取り戻すべく今日からアピカの広いグランドを使って練習をやる予定だったのに、小中学校の部活が、おそらく市の指示でだろう、一斉に中止になったようで、そのアオリを受けてだと思うが、これも中止になった、「出来たのに」と夏子は恨めしそうに晴れた空を見上げていた。安全第一はわかるけど、積極的な安全第一と後ろ向きの安全第一は違うぞ。特に今回なんて、もう昨日のうちにわかっていることだろう。
 
 それにしても今回の台風5号のこの急旋回ぶり、慣性の法則(がこの場合当てはまるかどうか知らないが)に反するような進路変更、思っても見なかった、こんなことだれも予想していなかったろう。今回は、絶体絶命、九州の西側を通らないにしても、九州には必ず上陸すると思っていたが、まさか九州本土直前に上陸しないで通過していくとは、まるでデキの悪いお約束映画のようだ、いやはや、台風というものは実際に来てみなければ分からないものである。
 
 その台風5号、ここではとっくに過去のものになっているが、速度が遅くてまだ旅の途中、ようやく、午後三時半ころに和歌山県北部に上陸したそうだ、地図を見ると四国を少し回り込んだ地点だ、当初、誰が、こんなところに上陸するなどということを想像したことだろうか。

 今日は、午前中一杯かかって、少し草刈りをした。あまり広い範囲ではないが、やたらツル性の草がはびこっている場所で、刈払機に絡みついて往生した。

 晩飯。豚肉の味噌漬け、モヤシの中華風サラダ、シューマイ、ナスとタマネギ味噌汁、トマトなど



平成29年 8月 6日(日) 台風5号接近

    最低気温 22.7℃ (17:37現在)、最高気温 26.1℃ (10:20)

 いざ台風が来る、となると、ここは大丈夫だろうと思いながらも、それでも結構気になるので、いつものような緊張はしなかったが頻繁に気象状況に注意を向けていた。

 ずっと雨雲レーダーを見ていると、台風を中心にして左回りに雲が動いているのがよくわかるが、九州山塊が盾になっているのだろう、脊梁を境に雨が熊本方面には入ってこない、阿蘇の直ぐ東側までは真っ赤な雲だが、そこで消えてしまって入ってこない、山の高さなど高が知れているのにその上にある雨雲が越えられないというは不思議なものである。これが普段の西からの雨雲だとこちら側に降って山塊を越えて東側にはあまり降らない、普段、宮崎県など太平洋側が天気がいいのはそういうことだ。(写真1写真2

 台風も当初の予想より東寄りに進路を変えており九州本土には上陸しないで四国方向に進んでいるようだが、それにしてもスピードが遅い。ここに最接近するのは深夜か明朝だろう、いままでの経験で東側を通る時には、ここは特に外輪が盾になるのであまり吹かない、と勝手に決めて、特にその場合も風が東風で物を置いてあるベランダ側は建物の反対になるので物は飛ばないと思うので全然片付けていない。この先、どう転ぶかわからないが、熊本県には大雨も降らないし、暴風警報も出すこともあるまいと思うのだが、出ているなあ。(後から見たらカミさんが片付けていた、片付けなくてもいいのに) 気象庁・・・JTWC

 宮崎の「じっちゃい」のブログによると、氏の家の周辺では既に稲刈りが終わったそうだが、ここ阿蘇では、穂が出揃って実も詰まってその重みで頭を垂れてきておりそろそろ熟し始めるころである。イノシシは別に米を食べるのが目的ではないのだが、憎たらしいことに、この時期になると稲穂が生えそろっている中をヌタ場にするべく潜り込んで好き勝手に田んぼを荒らしまわる。昨夜遅く、娘のピアノのレッスンから帰ってきたカミさんが家の前でイノシシがウロウロしているのを見たと言っていた、そう言えば夜、盛んにボンが吠えていたのはこれだったのだろう、そして小生が今朝散歩の時に通った時に、イノシシが田の中に入り込んで稲を踏み倒した跡を見つけたので、田の志賀さんに教えて差し上げたら、早速雨の中ご家族で電柵を設置しておいでだった。数年前に区役で草刈りをしている時に、すぐ近くでウリ坊が数匹、人を恐れることもなく遊び回っていた事がある、ここはイノシシが多いのである。(写真1写真2写真3


平成29年 8月 5日(土)

 曇り、時々、サッと降ってまた上がる。気温も暑さに閉口していた数日前に比べたら、ちょっと肌寒く感じるくらいだ。台風の影響だろう。
       最低気温 24.2℃ (02:35)、最高気温 27.6℃ (11:45)

 一日二日前の気象庁の台風5号の予想コースが、阿蘇にピタリと照準を合わせた時に、内心シメタ!と思った。ということは、絶対にこのコースには来ないという確信を得たからである。今の技術でそんなに早い時点で正確な予想が出来るわけない、と思ったからである、その時点で、ここに来るということは必ず外れるということだからである。それだけ小生は気象庁に全幅の信頼を置いているのである(逆の意味でね、半分は冗談だけどね)。

 新しいところでは、台風の予想進路は当初予想より少しずつ東寄りに変わりつつある。それもそうだが、当初の台風の勢力が、九州に近づくに連れて大分小さくなると思われることである。大きな勢力で来られたのでは大変なことになるが、この程度なら耐えられるだろう、しかもこの地の東側を通る時には、特に外輪が防壁になってくれることもあって、今までにも結構直近を通過した台風もそれほどの風が吹かなかった経験がある。もっとも、振り子のようにまたいつ方向を変えるか分からないし、台風というものは実際に来てみないとわからない部分もあるので決して安心はできないが。気象庁・・・JTWC

 それにしても台風の速度が遅い、来るぞ来るぞと言ってもう大分経つが午後7時現在、まだ奄美大島にも達していなのだろう、ここまでやってくるのは明日の夜、あるいは明後日の未明ころだろうか、暗い時間帯というのが一層の不安を募らせる。

 今晩は大丈夫だろうと、母娘はピアノのレッスンに出かけていった、太郎は家に残った。

 寺さんが先日手術入院した記録、「脱腸の記のその2」と、それより少し前に同じく「袋の綻び」を手術した際の「陰嚢水腫顛末記」を送ってきた。小生は書け、書けと人を煽るが、普通、人というものの記憶とはいい加減なもので、また、なかなか生活の記録というものを残すことをしないので、このような形であれ記録を残しておくと、ああ、自分はあの時にこんな病気で手術したのだったなあと思い出すことが出来てこれはこれで結構役に立つ存在なのだゾ。(風の便りの「その他」に掲載)


平成29年 8月 4日(金)

 曇り、時々ざっと降る、晴れていても降るのでそのたびに東の空に虹が立っていた。もう台風の影響か、ずっと東寄りの風が吹いていた。吹かれ慣れない方向からの風で、買い物から帰ってくると、取り付け道路に竹が倒れ掛かっていて車の通行を邪魔していたので伐っておいた。
     最低気温 24.3℃ (04:52)、最高気温 28.7℃ (13:57)

 台風5号、迷走台風なので、まだわからないな、それにしても強くてスピードが遅い。気象庁・・・・JTWC

 ラジオ体操。時々霧雨が降っていた。
 
 今朝はカミさんが早く出ていったので、太郎の学童は小生が送っていった。(写真1写真2

 お盆前に少しは草を刈っておかねばと思っていたが、この先、もし雨が続くようなことにでもなればそれも出来なくなるので、今日庭先などを少し刈っておいた。最近はボンの小屋が草に沈んでまるで、自然の巣窟のようになっていたが、少しスッキリした、ただボンにとってはどちらが良かったのだろう。
 
 晩飯。お姉ちゃんはマーチングの練習で青少年交流の家で合宿中だ、太郎と二人の夕食、煮込みハンバーグを作ってやった。



平成29年 8月 3日(木)

 もう台風の影響が出始めているのだろうか、朝からどんよりと曇っていた。そして今日は気温も上がらなかった。
     最低気温 21.5℃ (04:08)、最高気温 27.9℃ (14:13)

 台風5号、結局は熊本直撃になるのか・・・・気象庁・・・JTWC
 
 ラジオ体操。こどもたちは、小生が留守をした二日間は拡声器無しで体操をやったが、今朝からまた拡声器を使った、景気づけで音は大きい方がいい。(写真1写真2写真3
 
 カミさんの友人が熊本に来ているそうで、カミさんはその友人に会うために、休みを取って出かけていった、太郎も学童を休ませて連れて行った。
 
 小生が横浜に行っている間にボンの鎖が切れたので、今日また繋いでおいた、接ぎだらけでこの鎖もそろそろ限界だろうが、ボンの老いが著しくて、果たして鎖を買い換える必要があるだろうかと、心のなかでしてはならない計算をしている。

 お盆前に、畑や墓の草刈りをしなければと思うがどうせ台風が大荒れしそうなので、台風が行ってからやるかと今日は何もしなかった、でも庭先の少しくらいはやっておかないとなあ。明日、雨が降らなければやるか。
 
 今回の上京で十数年ぶりで履いたビジネスシューズであちらこちら歩き回ったので、昔は履いていた靴なのでマメこそできなかったが、妙な所に力がかかったのだろう、スネあたりが筋肉痛を起こしている。


平成29年 8月 2日(水)

 横浜港南区芹が谷の従姉の家で朝を迎えた。ゆっくり朝食を済ませて、小生だけ告別式の時間まで自由行動をすることにして、どこに行こうか、そうだ、戦艦三笠を見に行こうと、バスで上大岡にでて、京浜急行で横須賀中央駅まで行った。昔はJR横須賀駅で降りて行ったことがあるが、JRの駅からだと結構距離があったが、京浜急行の横須賀中央駅からだと三笠記念公園はずっと近い、歩いてすぐだ。それにこちらの方が繁華街のような気がした
 
 懐かしの戦艦三笠、なんど見ても惚れ惚れとする。今の基準からすると極めて小艦になるのだろうがそれでもデカイ。今回も艦橋に立って遥か日本海海戦をイメージした。また以前は無かったが、展示室の一角にバーチャルリアリティ日本海海戦という映像装置が何台か並んでいて、メガネをかけて見ると、3DのCGの東郷元帥や秋山参謀など連合艦隊の幕僚も登場して、バルチック艦隊との華々しい海戦を見ることが出来る、小生、バーチャリリアリティの映像は初めてなので、普通のテレビを見るように始めのうちは前面ばかり眺めていたが首を巡らせると360°後方にも三笠艦上から眺める海が広がっており見上げるとZ旗も翻っていて、ああこれが噂に聞く今流行のVRかと驚いた、まだまだCGの改良点は沢山ありそうだが、これは非常に面白かった。

 戦艦三笠記念公園 連続写真

 そんな風にして、時間が経つのも忘れていて、ふと気がついたらもう告別式までの時間が無い、今回の旅で初めて慌てて横浜に戻って、会場に飛び込んだが、一分遅れてしまってもう告別式が始まっていた。
 
 最後のお別れをして納棺をしたあと、小生は火葬場まで行く時間がないので出棺を見送って、同じく火葬場までは行かない従兄姉とは親戚のような長い付き合いの野沢さん(70歳くらいだが皆んな、かっちゃんかっちゃんと呼んでいる)に横浜駅まで車で送ってもらった。

 告別式連続写真

 横浜駅では相鉄ジョイナスの地下でトンカツで腹ごしらえをしてから京浜急行で羽田に向かった(とんかつ屋は浜勝の方が和幸より数段上だ)。
 
 今度来る時は弘子姉の時だけど、なるべく遅くしてねと言って別れた、だんだんと小生の世代に近い親戚が居なくなって寂しい限りである、後に続く若い世代の親戚はその分増えているが、小生の年代にとっては若い世代の親戚は同世代以上の親戚とは言ってみればもう別物の親戚なのだ。
 
 帰りの便はソラシドエアの航空券で、昨日と違って、ANAの共同運行とのことだが、今日もソラシドエアの機材、スタッフだった。共同運行のシステムはどうもわからん。 16:25羽田発 18:15熊本着 SNA017
 
 この飛行機は折り返し便かなにかで、少し遅れて到着したので、それにつれて、出発もずれて30分ほど遅い出発になった。ソラシドエアだとかのLCCは搭乗口が大体一番外れにあるので、羽田は広いのでそこまで歩くのが大変である。
 
 5時ころ出発して、6時半くらいだったかなあ、熊本空港に帰り着いて、家に戻ってきた。

 たった一晩留守にしただけなのに何日も留守にした気分だった。相変わらずのとんぼ返りだったが、過去の上京と違って少しは時間に余裕を持って行動したが、帰ってから、ああ、他にも何人か会いたい人が居たなあと思ったが、急の上京だったので、その時には思い出さなかった。前の職場の仲間達、そしてわざわざ港南区に行ったのだから、JTQのところにも寄ればよかったなあ。
 
 今回旅して感じたこと。モノレールや電車の車窓から見える景色、よくもまあこんなに見渡す限り隙間なく家が建て込んで、ビルが林立、いや乱立して、そのマンションなんかの一つ一つの窓にはそれぞれ人の営みがあり、高いところを走る車内からガラス越しに見ているので、まるで映画などの非現実のミニチュアの世界を眺めている気分になって、そうなると、ここに大地震が来て、大津波が押し寄せて、おまけにゴジラなどが暴れて、などと想像すると、これらの風景は、そしてそこに生きる人々は一体どうなるのだろうかと思った。
 
 太郎たちは時々お祖父ちゃんの所に行く機会があるが、いつも、空港まで車で迎えに来てもらって、そのまま湾岸道を走って、千葉に行くが、その道筋でもビル群は見えるが、一度、モノレールや山手線で東京あたりまで行ってからそこから自動車で千葉に行くというルートをとれば、また違ったこの大都会の、阿蘇とは全くの異次元の世界を目の当たりに体感できるではないだろうか。

 ただ、これだけの大都会、人やクルマで溢れていても、不思議と「喧騒」というものは感じられず、総じて静かだった、昔(昭和の中頃の成長期にあったエネルギッシュなころだが)と違って今の人は静かになったのだろうかと感じた。「喧騒」とは車などの騒音や機械類の立てる音の大きさでなくて、人の話し声のことなんだなあ、秋葉原などでは、数人の若者が歩いていると例外なく中国人だった、秋葉原なんかに来る日本人の場合はオタクが多くて、一人でやってくるのでこんなに陽気に騒ぐことは無いのだろうか。福岡でも中国人の観光客が多いと聞く、多分熊本でも阿蘇の観光スポットでもそうなんだろう、小生が住んでいる所は同じ阿蘇でもそういったところとは全く無縁なので、今回旅して、話に聞く中国人の観光客の多さはこれなのかと認識を新たにした。
 
 横須賀ではアメリカの兵隊さんが映画で見る茶系統やブルー系統の迷彩色の軍服を着て普通に歩いているし、その家族たちもそれが日常のごとく母親が赤ん坊を乗せた乳母車を押して、そばにその兄弟たちが連なって買い物をしているし、町の人たちも全くそんなことは気にしておらず、ああ、ここは国際都市「ユクスーカ」なんだなあと改めて思った。今回もあちらこちら飛び回って移動距離が長くてその分時間はかかったが、それでも公共交通機関が発達しているので、移動のための「足」には全く不自由をしなかった、それが熊本地震以降、阿蘇では、たかだか大津から山を一つ越えて阿蘇までの十数キロの公共交通機関すら無いのだ、わずかの距離なのに来られないのだ、オイ!f-JR九州!代替バスを走らせろ!

 娘は今日からマーチングの合宿だそうで、数日間不在で、一昨日の夜に顔を合わせたっきりでずっとすれ違いになる。
 
 台風5号、結局最後はここに来るんだなあ。

 ボンにフィラリア予防薬を飲ませる。
 
 
平成29年 8月 1日(火)

 07:35熊本発 09:15羽田着 ANA3712
 
 朝五時起きの五時半出発で阿蘇くまもと空港から羽田に飛ぶ。飛行機などめったに利用しないが、それでもその時にはいつも使っている空港の外にある送迎付きの民間駐車場に預ける。

 搭乗手続きの際に、カウンターで幾つか座席が空いてますが、窓際が良ければ非常口のところのシートがあります、ただ、緊急脱出時には客室乗務員と一緒に乗客の脱出の手伝いをお願いすることになりますが、とのことだったので、内心シメタと思って、そこを取ってもらった。非常口のところのシートのところは、離着陸時に客室乗務員がシートベルトをして乗客に向かい合うようにして座るようになっているので、小生が飛行機に乗る機会など殆どないのにそういった機会に恵まれるとは、「僥倖」、「ラッキー」だと思ったのである。
 
 ところが、今朝乗った飛行機はそういった構造になっておらず、普通の座席配列で小生の座席の前は前の座席の背もたれがあるだけで客室乗務員のシートなど無い!・・・あれ?オカシイな、と思ったら、今回の飛行機は左右に三人がけシート小型のジェット機で、小生が記憶にあったのはもっと大きなジェット機の場合だったのかもしれない、うーん残念!ただ、足元は普通の座席に比べると広々としていたのがせめてもの、というところか。(写真1写真2(翼の上に出てシューターはどうするのだろう))
 
 改めて、非常口のシートに座る客の「手伝い」に関する説明書きを読むと、これは大変だ、乗客を鎮めたり、飛び降りる乗客の介助をしたり、下手すると最後まで残らなければならない。もっとも誰もそういうことは現実的に起きるとは思っていないのだろう、もしそれだけ大変な役割で体力も必要だったら、小生のようなジジイにはシートは割り当てないだろうから。
 
 少し遅れて出発した。今日の乗った飛行機はANAの航空券だが、ソラシドエアとの共同運行で、機材はソラシドの飛行機だった。そして今日はソラシドエアは開業15周年になるそうで、乗客全員にちょっとした記念品のプレゼントがあった。
 
 10分程度遅れたろうか、羽田空港に到着して、通夜が午後6時だから、それまでどうしようかと思って、まず、武藤肇のところに行くことにした。彼は保谷(今は西東京市と言うが)に住んでいて、西武池袋線で行く、昔いちど、同じようなことで、訪ねたことがあったが、その時には事前連絡をせずに突然顔を出して夫妻を驚かしたことがあったので、今回もその手でいくかと思ったが、ちょっと気になったので、空港から連絡をした所、これからちょうど外出をしようとしてたところだという。彼は、去年の暮に小生が大腸がんの手術をしたちょうど同じ頃に軽い脳梗塞を起こして入院をして、今も時々薬をもらいに行っていると言う。病院は何処かと訊くと、青山一丁目にある山王病院だと言う。じゃあそこで会おうかということになって、12時半ころの約束をして、それまで時間ができたが、ただ、その間に、もう一箇所行こうと思っている茅ヶ崎までの往復の時間はない、どうしようか、久しぶりに秋葉原にでも行ってみるかと思って、浜松町に出て、秋葉原に向かった。その前に、浜松町駅のホームですぐ近くに職場がある、池上くんに電話をして、今、近くまで来ているが時間がないので今回は声だけきいて済ませると言った。電話で話をするだけなら、別に近くにいようが遠くにいようが関係ないところだがこれは気分の問題である、元気そうだった。
 
 そして秋葉原に行ったが、駅を降りて電気街口に出たのはいいが、、コインロッカーを探しているうちに、方向感覚が狂って、今何処にいるのかわからなくなった、それほど駅周辺が変わってしまっていた。そして少し歩いて昔からあるワシントンホテルの前に出て、ああ今居るのはこの通りか、そうするとこっち方向が昭和通り方向で角に「書泉」と言ったかなあ、大きな本屋があったな、で、こっちが、万世橋の交差点方向だなとようやく思い出した。一瞬あせっていたがそれで落ち着いて、その近くで海鮮関係の食堂があったので、うな丼を食べて腹ごしらえをした、うなぎは肉厚で柔らかかったが、タレが少なくて、それがちょっと残念だった。
 
 そのコインロッカーのことだが、使い方が全く分からない、一応、荷物を入れて扉を閉めて、手のひらで押さえていると、赤ランプが点灯してロックが掛かるとあるが、その先がわからない、そのうちにせっかく赤く点灯してロックがかかった扉がまた開いてしまう、近くに係員が居るかと思ったが居ない、しばらくやっていてどうにも分からないので、ちょうどロッカーから荷物の出し入れをしている人に、どうやるのか全くわからないので教えて欲しいと頼んで、教えてもらった。前回だったか上京の時にもロッカーの使い方が分からなくて人に訊いた記憶があるが、確かその時とはまた違っていたと思う、その時のロッカーが更に進化していたようだ。(写真1写真2
 
 少し歩いているうちに少しずつ記憶が蘇ってきた。秋葉原駅は秋葉原デパートが無くなってそれに代わって駅と一体となった新しいビルができたので特に混乱した。「やっちゃ場」跡あたりに新しいビル群が出来たのは前回行った時に知っていたので驚かなかった。秋葉原の街の中身がすっかり変わってしまったのは、前回の時に知っていたが、それでも昔ながらのパーツ屋などはまだいくつか残っていた。「萌え」の姿も前回ほどは多くなかったようなきがする。
 
 昼近くまでブラブラしてから、武藤と会うべく山王病院に向かった。と言ってもどう行けば一番いいのか分からないので、スマホで病院を検索すると、自分がいる場所から病院までのルートを徒歩と鉄道、地下鉄などを組み合わせて瞬時にルートを設定してくれる。田舎に居てもスマホは便利だと思うが、都会ではその何倍もの便利さがスマホにはあるということがわかった(飛行機にのる時にも搭乗口でスマホをかざして入場する人たちを見た、あれなんだろう)。現在では昔あった(今もあるのかしらないが)駅すぱーとなどというソフトをインストールしていなくても、インターネットが出来る環境にあれば瞬時にわかる時代なのだ。逆を言えば、それだけにもしインターネットが麻痺したら、「困り具合」の大きさは電話の比じゃないだろうとも思った。
 
 秋葉原から新橋まで行って、そこから銀座線に乗り換えて青山一丁目で降りて歩いた。山王病院はまるでホテルのような病院で、待合室で武藤が先に着いて待っていてくれた
 
 武藤、運動機能は大丈夫だそうだが、言語機能が少しやられたそうで、会話が少しおぼつかないところがある、それに、自分のことは分からないが武藤は随分歳をとったなあ、精気が無いぞ、もっと元気を出せと気合を入れて、30分ほど話をして別れた。
 
 そして次なる目的地、茅ヶ崎に向かった。青山一丁目から新橋に戻って、一旦東京まで戻ろうかと思って東海道線のホームに上った所、ちょうど停まっていた下り東海道線の電車の発車ベルがなっていたので飛び乗って全く無駄なく乗り継ぐことが出来た。
 
 新橋駅でキップを買おうとしていたら、外国人の青年が盛んにガイドブックと自動販売機の上に掲示してある路線略図を見比べている。見かねて、「ドコへイクノカ?」「かまくうら」、「カマクラハ(路線図の鎌倉のところを指差して)ココダ800円ダ」と(モチロンブロークンだが英語で)教えてやったら、メニサンクスと喜んでいた。英語なんて単語の羅列で意思は通じるのだ、要は気後れしないことだ、小生はそのことを無線からなんとなく学んだ、小学校からの英語教育など絶対に無駄だ、それよりまず正しい日本語を教えろ。

 電車内から寺さんに今乗ったところだとLINEを入れたところ、調べてくれて14:30着のアクティだと、茅ヶ崎駅に迎えに出てくれていた。彼は昨日脱腸の手術入院から退院したばかりで、車運転して大丈夫なのかと訊いた所、運転には支障がないとのことだった。
 
 小生が東海道線でちょうど下っている時間帯に、横浜辺りから湘南方面に大雨が降って、道路が冠水したり、川が氾濫しそうになったりで、大騒ぎをしていた。一部に避難指示も出たようで、神奈川県が一時「阿蘇状態」になっていた。
 
 寺さんとはほとんど毎日LINEでコミュニケションを取っているし、時々音声通話もしているので全く久しぶりという気がしなかった。奥方も昔と変わらずお元気だった
 
 今回は前回と違って少しずつ時間に余裕を持たせて行動したので綱渡り的な行動はしないで済んだ、寺さんのお宅からも少し早めに(4時ころだったろうか)辞して、今日の本番のお通夜の会場に向かうべく、横浜に駅に向かった。
 
 それまでずっと順調に移動してきたのに、横浜に着いてさて外に出ようかとしたら茅ヶ崎から乗ったキップを落としたようで、何処を探しても無い!どうしよかと思ったが、横浜駅には改札口の脇にある駅員がいる窓口が無い、結局、みどりの窓口的、ガラスで区切った案内所のようなところにいる、制服姿の女性に、こうこうこう言うわけでキップを落としました、このような場合はどうしたら良いでしょうと問うと、「人品卑しからぬ」小生の風体を見て、本当はお金を払っていただくところですが、今回は結構ですお通りくださいと言って、放免してしてくれた。うれしかったなあ、JR東日本はイイ、fJR九州はダメ(代替バスを走らせろ)。
 
 最近の駅の改札口、私鉄、地下鉄、JRを問わず、最近の高速の料金所が皆そうであるように、IC専用の改札口が多くて、切符が使える自動改札口の数が極めて少なくなっている、時代なんだなあ。(ところで改札を通るICって何だ?)
 
 横浜駅から相鉄線で二つ目の駅、西横浜駅を降りてすぐのところにある、家族葬専門の小さな斎場に時間に余裕を持たせて着いた。 http://www.okuria.jp/
 
 今回の主役?の道子義従姉は我が家の一番近い親戚の一人だった従兄の昭吾兄の奥さんで、もう半世紀以上も昔になるが小生が学生時代に下宿していた吉祥寺から時々横浜まで出かけては新婚時代の従兄夫妻に世話になった。最近体調を崩して療養していたそうだが、予想を越える早さで、病状が悪化して亡くなってしまった。小生よりちょうど十歳年長の従姉だった。
 
 お通夜はご本人の遺志だったようで本当に近親の親戚など少人数で静かに営まれた。小生はそういった間柄だったので、今回案内をもらったので、何を措いてもという気持ちで参列させてもらった。近い人がどんどん向うに行ってしまって本当に寂しい限りである。 

 通夜式連続写真

 お通夜の後、従姉の弘子姉の家に、一宿一飯の恩義にあずからせてもらうことになった。通夜の後、弘子姉の家に弘子姉の子どもたち夫婦が集まって夜食を食べながらつもる話をした。

 大雨の後だったからだろう、涼しい夜だった。

 昼間、カミさんからLINEで、ボンの鎖が切れてウロウロしていると娘から電話が入ったから家に戻って散歩用のリードに繋いでおいたと連絡が入った。