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平成29丁酉(2017)年 3月の記録(新しい日付けの順)


平成29年 3月31日(金)

 ほぼ終日、間断なく雨が降っていた。本来なら、今の時期の雨は柔らかで、芽吹き、開花を促す「春の雨」のはずだが、今年はほんとに寒い、今日なんかしみじみストーブの火が有難かった。夜に入ってようやく上がったようだ。
   最低気温 4.3℃ (18:19変な気温変化、一応この時間で下げ止まってはいるが)、
   最高気温 11.0℃ (03:34)


 先日ネットで注文してあったジャガイモの種芋が届いた、急いで畑を作らなければ芽が伸びすぎる。

 卒業式、卒園式、退任式、それから巷では定年退職、また、いろいろな制度の打ち切り、廃止などなど・・・・3月は「別れ」が目白押しだ。その3月も今日で終わる、平成28年度も今日で終わる。保育園の催しでの大量の写真撮影も、先日の太郎の卒園式で最後かなと思っていたが、そうだ、今日の退任式があった。

 坂梨保育園では今年の異動はお二人で、みよこ先生とえりな先生、えりな先生は太郎の担任のお一人でもあった。それぞれ市内の他の保育園に移られることになった。そして太郎の保育園生活は今日が本当の最後になった。この時期になると必ず「花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」の詩を思い出すが、今年は肝心のその花がまだだ。
   坂梨保育園 退任式 連続写真 (1/5)
   坂梨保育園 退任式 連続写真 (2/5)
   坂梨保育園 退任式 連続写真 (3/5)
   坂梨保育園 退任式 連続写真 (4/5)
   坂梨保育園 退任式 連続写真 (5/5)

   
 今日は退任式でいつもより時間がかかると思ったので、早々とハヤシライスを作っておいた
 
 于武陵「勸酒」
   勸君金屈巵 (きみにすすむ、きんくつし)
   滿酌不須辭(まんしゃく じするをもちいず)
   花發多風雨(はなひらいて ふううおおし)
   人生足別離 (じんせい べつりたる)

 井伏鱒二の和訳
   この(さかずき)を受けてくれ
   どうぞなみなみつがしておくれ
   花に嵐のたとえもあるぞ
   さよならだけが人生だ



平成29年 3月30日(木)

 今日は汗ばむほどの好天気になった。日替わりで変わっている。明日はまた天気が崩れるらしい。今年は気温が低い日が続いているので桜の開花もいつもの年に比べてずっと遅れている。我が家にある豆札のソメイヨシノの標準木の蕾はまだ固くて、夕方見ても朝と変化はなかったが(豆札には山桜はあっても多分ソメイヨシノは我が家だけだと思うので、必然的に標準木になる)、一方、佐藤錦の方は、朝写真に撮った時はあと一日二日くらいかなと思っていたのに、今日のこの暖かさで夕方には一気に開花宣言が出来るくらいの輪数、花が開いていた。サクランボの花はソメイヨシノよりずっと早いのだ。せっかく開花に向けて気温が上がってきたかと思ったらまた寒さに逆戻りのようだ。
     最低気温 8.4℃ (00:00)、最高気温 17.8℃ (15:54)

 ハチウト内検。気温が上がってハチも日常の活動を始めたようで、ウトを覗いてもひと頃のような大騒ぎをあまりしなくなった。
 
 愛知県からやってきた我が家の親戚御一行様、昼前に博多に向けて出発していった。我が家の家族は皆出かけていて小生一人が見送る形になったが、人が去ったあとというのは、なんとも寂しいものである。(写真1写真2写真3写真4写真5写真6
 
 まもなく一年生の太郎とまもなく四年生の士音君が驚くほどの意気投合ぶりで始終ベッタリだった、太郎、オマエ、みんなと一緒に行くか?と尋ねたら、さすがにそれは出来ないようで、返事をしなかった。
 
 カミさんは年度末ということもあって、帰宅が夜遅くて、朝はまだ皆が寝ている時間に出ていくので、一同が会する時間帯に顔を合わせる機会が無かった。(写真)
 
 阿蘇文化調査研究会の今年度の最終例会があったが、今日はそんなわけで出席できなかった。

 今日は夏子は、阿蘇ファームランドで吹奏楽部がイベントに出演したので(カミさんはその送迎)、夕食は太郎と二人で先日の材料がまだたくさん残っていたので、すき焼きにした


平成29年 3月29日(水)

 昨日の快晴とは一転、今日は細かな雨が降る天気になってしまった。
     最低気温 4.0℃ (00:00)、最高気温 8.6℃ (17:16)

 今日は平日なのに、来客もあってなんとなく休日のように勘違いした、生ゴミの収集日だったのに出すのを忘れた、いや今日は水曜日か、じゃあゴミの収集日じゃなかったか。,

 太郎は今日は当然のごとく保育園を休んで、みんなと行動を共にした。

 我が家に滞在中の連中は昼近くになって、ファームランド方面に行ってみようかと出かけていった。帰ってから聞いたところ、地震の影響だろうか施設内の色々な店舗も閉鎖閉鎖で寂しい状況だったそうだが子どもたちはたくさん遊んだということだった。帰りに皆でアゼリアで風呂に入って帰ってきて夕食にした
 愛知県から妹夫婦一行来訪(Part2) 連続写真(1/5)
 愛知県から妹夫婦一行来訪(Part2) 連続写真(2/5)
 愛知県から妹夫婦一行来訪(Part2) 連続写真(3/5)
 愛知県から妹夫婦一行来訪(Part2) 連続写真(4/5)
 愛知県から妹夫婦一行来訪(Part2) 連続写真(5/5)


 小生は、ノンビリと道楽で過ごした。
 
 で、いきなり。例えば、共振周波数を求める式・・・f=1/(2π√LC)で共振周波数はLとCの組み合わせで決まる。今では、PCのソフトで簡単に求められるのだろうが、手計算だと結構面倒だと思う。電卓でも、関数電卓が必要になってくるのだろう。そこで「計算尺」の登場である。

 計算尺は本来の汎用的な乗除計算の尺の他に、使用目的によって機械・電気・電子・化学・建築・土木等の工学関係はもとより、医療・健康やまたは商業など色々と専門性のある尺を加えて作られた沢山の種類の計算尺がある。「ある」というよりは「あった」が正しい、今は、その昔「あった」計算尺を手に入れて楽しんでいるのである。

 この計算尺は電子工学用の計算尺、HEMMIのNo.266という計算尺である(昔の計算尺なので、周波数はHzでなくてCで表示されているが)。(写真1写真2写真3

 この計算尺を使うと上に書いた共振周波数などの計算が簡単にできる。そして逆に、例えば共振周波数を455kHzに設定すると、LとCとの組合わせが無段階連続表示されるので多分電卓などで数値を変えて計算するよりは遥かにわかりやすいのではないだろうか。例えば100pFのコンデンサと1.22mHのインダクタコイル、あるいは200pFと0.612mHなどなどそのたびに計算をしなくても一度で見ることが出来る(計算尺は単位のとり方が難しい、10も100も0.1も同じである、計算尺はこの位取りが面倒である)。
パラパラ・・・パラパラ・・・


平成29年 3月28日(火)

 今日は文句なしの素晴らしい天気になった、どうやらこの天気も今日一日だけのようだが。
     最低気温 -0.7℃ (06:34)、最高気温 11.4℃ (15:31)

 愛知県から大阪南港〜別府のフェリーに乗って「やまなみ道路」経由で、(小生の)妹夫婦とその娘とその子ら総勢5名が来訪。妹たちは婆様の葬儀以来で七年ぶり、一番下の子は今、保育園年少児なので阿蘇は初めてになる、七年前というと、太郎はまだ母親のお腹の中に居て婆様と入れ替わるようにこの世に生を受けたので太郎も皆に会うのは今日が初めてになる。太郎は初対面の人間には本当に人見知りする。しかしいつものことだが一時間もするとまるで旧知の間柄のように打ち解ける。寝る時になってもうすぐ4年生になるお兄ちゃんと一緒に寝ると言って小生に叱られてふくれっ面をしていた。太郎にとっては従兄妹の年齢だが、太郎の従姉はその子らの母親になる、なんとなれば、太郎は小生の息子なので、年齢差でそうなるのである。
 
 まあ、百駄文は一見に如かず
 愛知県から妹夫婦一行来訪 連続写真

 その太郎、小学校入学を前に、通信教育で一応勉強をしている。朝になるとその会社から支給された目覚まし時計が、勉強時間を知らせると感心に起きて勉強をしている、いつまで続くかね。
 
 ここのところ天候不順の寒い日が続いてたので、ハチの様子を見てみた。写真には写っていないが、巣のクズの中に、蛹のようなものや小さなスムシの幼虫のようなものが二三匹居た、この時期、このスムシの幼虫なんか孵るのだろうか、それとは別に、写真を見るとハッキリとは分からないが、これは毛虫のようにも見えるなあ、そして、オスバチの生まれた形跡も見える、なんとなく、巣の形も良くない気がする・・・・・・働き蜂産卵ということになっていなければいいが。


平成29年 3月27日(月)

 いやあ、天気がはっきりしないなあ、それに寒かったなあ。雨が降ったり、雷が鳴ったり突然に霰と言うよりは雹に近い大きさの雪の礫が降ってくるかと思うと、虹が出たり、目まぐるしく天気が変わっていた。
    最低気温 3.8℃ (06:33)、最高気温 6.8℃ (11:46)

 今朝の写真、これ・・・あれ?・・・そう、番外編である。幼稚園は教育機関であって文科省の所管であるのに対して、保育園は厚労省の所管で保護者が仕事で育児ができないこどもを預かってくれる施設である。卒園式はたまたま式をその日に行ったというだけで、法的には年度いっぱいは面倒をみてもらえるのである(と解釈しているのだが・・・・)。もちろん、卒園式をもって保育園生活を終える子どもたちもいるが、卒園式後もいつも通り登園してくる子どもたちもいるのである。そして我が家は今月いっぱいお願いすることにしたのである。いつものように登園すると、殆どの子どもたちがいつものように登園していた。果たしてこどもたちの心境はどんなものなのだろうか。

 晩飯。炊き込みご飯、揚げ出し豆腐、出汁巻き玉子、ホウレンソウ味噌汁


平成29年 3月26日(日)

 曇り、後、時々細かな雨。今の時期の降ったり降らなかったりのはっきりしない天気、菜種梅雨なんだろうな。気温も低めだ。
      最低気温 5.2℃ (04:52)、最高気温 10.7℃ (12:38)

 朝9時前、MQY局ご入来。こんな時間に何事だろうと思ったら、太郎が卒園したと日記にあったので、とわざわざ色鉛筆のセットを届けてくれた。いやいや保育園を卒園したくらいで、と大いに恐縮、MNI TNX。

 そろそろ薪が心細くなって、このまま、しばらく様子を見ようかと思ったが、やはりまだストーブがほしいほど気温が下がりそうなので、午前中の薄日が射している時間を利用して薪を作った。と言うより、薪材の山の中からストーブに入りそうな薪を選んで薪小屋に運び込んでおいた。天候不順が続くと乾かないのでとりあえず雨の当たらない場所へ、ということである。

 今日はノンビリ、他には特に何もなかったな。

 忘れるところだった、じゃがいもの種芋、キタアカリとメークイン各5キロ、ネット注文をしておいた。去年も今頃だったと思うが、去年はもう殆ど無くて慌てたが、今年はすんなり注文できた、アブナイアブナイ。


平成29年 3月25日(土)

   最低気温 3.8℃ (07:15)、最高気温 6.8℃ (16:42)

 本日太郎の卒園式だった。もう少し天気が回復するかなと思っていたが、時々氷雨が降る寒い日だった。本当に皆さんのお陰で無事に卒園をすることができた、卒園式に臨んで、娘の時もだったが、この子たちみんなにはそれぞれどんな未来が待っているのだろうかと思った。

 夜は吹奏楽のコンサートやらで母娘は県立劇場に出掛けていったので、例によって太郎と小生は留守番、風呂からの帰りに二人でジョイフルで夕食を食べた。ファミレスではどこでも同じだと思うがドリンクバーというのコーナーがあって、色々な飲み物が飲み放題というシステムがある。小生はあまり利用したことはないが、存在は知っていたものの、太郎を連れて行く時には、そのドリンクバーは利用したことがなかった。理由は、もともと食が細いところにもってきて、ジュースなどを飲むと肝心の食べ物がお腹に入らなくなるからである。でも今日はちゃんと食べるんだぞと約束をさせてドリンクバーを利用させた。えっ?何杯飲んでもいいと?100杯でも?ああ、いいよ、ちゃんと食べたらな。二人のやりとりを聞いていた隣の席のお客さんが、100杯・・を聞いて笑っていた。そして、太郎、勇んで飲み始めたが、結局三種類の飲み物を飲んだところで、う〜苦しい、と最後には少し残してたが、それでも大満足だったようだ。

 太郎、坂梨保育園卒園式 連続写真 ( 1/17)
 太郎、坂梨保育園卒園式 連続写真 ( 2/17)
 太郎、坂梨保育園卒園式 連続写真 ( 3/17)
 太郎、坂梨保育園卒園式 連続写真 ( 4/17)
 太郎、坂梨保育園卒園式 連続写真 ( 5/17)

 太郎、坂梨保育園卒園式 連続写真 ( 6/17)
 太郎、坂梨保育園卒園式 連続写真 ( 7/17)
 太郎、坂梨保育園卒園式 連続写真 ( 8/17)
 太郎、坂梨保育園卒園式 連続写真 ( 9/17)
 太郎、坂梨保育園卒園式 連続写真 (10/17)

 太郎、坂梨保育園卒園式 連続写真 (11/17)
 太郎、坂梨保育園卒園式 連続写真 (12/17)
 太郎、坂梨保育園卒園式 連続写真 (13/17)
 太郎、坂梨保育園卒園式 連続写真 (14/17)
 太郎、坂梨保育園卒園式 連続写真 (15/17)

 太郎、坂梨保育園卒園式 連続写真 (16/17)
 太郎、坂梨保育園卒園式 連続写真 (17/17)


平成29年 3月24日(金)

 まあまあ晴れだった・・・かな。
      最低気温 0.5℃ (01:09)、最高気温 10.2℃ (16:10)

 計算尺は面白いなあ、と時々撒き餌をしては、カモ、もとい、サカナをおびき寄せようとしているが、一向に寄ってこない。
 数学劣等生の小生は、計算尺をいじっていて時々目を洗われることにぶつかる。で、直接計算尺とは直接には関係がないが、いやちょっと尺を操作をする手順上関係はあるが。
  
この式を普通に計算する時に、一般的にはどうするだろうか、小生は先ず2×3×6=36を出してから2で割って18という答えを導き出すが、2÷2だけを計算して、その答え(この場合は1だが)に3×6を掛けても同じなのだ。(勿論3÷2でも6÷2でもかまわないのだが)。小生はそんな場合は2÷2だけなくて、3も6も2で割らないとダメなんじゃないか、つまり、2/2×3/2×6/2という気がしてならなかったのだが、そうじゃないんだなあ、確かに考えるとそうなんだけど。これは数学というより算数のレベルなんだろう、算数の基礎中の基礎なんだろう、いままで考えたこと無かったなあ、ご同輩はどうだろう。
 
 いつものように昼前にプールに行ったところ、プールのスケジュール表を見ていなかったが、今日辺りからもう春休みに入ったところがあるようで、団体客でプールのコースはほぼ一杯だった。ちょっと余談・・・今では放送なんかを聞いていると、コースとは言わずにレーンと言うようだ、昔、ラジオを聴いていると、第一のコーーースという場内アナウンスが神宮の森にこだまするように流れてきたものだが(古くは古橋、橋爪。そして山中、ショランダーの頃)。いつころから、どうして変わったのだろう、単なる流行りか?

 閑話休題言帰正伝。受付にこの団体の利用時間を尋ねたところ、お昼までだという。昼までまだ30分くらいあるので、じゃあ今日はやめますと言って帰ってきたが、昼過ぎに思い直してまた出掛けて泳いできた。これから春休みはずっとこんな状態になる、この合宿の団体使用のスケジュールは掲示してあるので先の方まで分かるようになっている。阿蘇市の財政は逼迫しているので、こういう機会を捉えてどんどん稼いでほしいものである。どうせ我々は年間会員なので、いくら通っても売上には寄与しないのだから遠慮しないでどんどん客をとってくれ。それにしても、阿蘇の公共施設はどこでもそうだが、アゼリアはかなり老朽化が進んでいてあちらこちらしょっちゅう故障をして、その修理がなかなか追いつかない。こんなものすぐ直せよと思うような蛇口のような小さなものでもそうである、そのこんなものすら直せないほど苦しいのだろう。そのうち施設全体が使えないほどの故障が起きても、もう建て直す余力など無くて他の施設のように閉鎖の運命にあるのではと心配している、せめて小生が使うあと数年はなんとか持ちこたえてほしいものである。
  @1,000m×1。

 太郎の卒園式、入学式に小生の日常着のジーパンではさすがまずいだろうと、小生の会社勤めの昔、つまり15年以上も前に着ていたスーツを着てみたところ、全く腹回りが足りなくて、ズボンのジッパーも途中で止るくらい当時に比べて太っていた。それでじゃあ減量するかと 3/6に68キロから開始して、卒園式を翌日に控え、今日風呂に行って量ったところ、ジャスト65キロに落ちていた。最初の目論見では2キロも落とせばいいかなと思っていたが、簡単に3キロ落とすことが出来た、もうズボンも楽々穿ける。別に苦労して痩せたわけではない、減量なんて簡単なものだ、要は必要以上に食べなければいいだけだ。と言っても食べることが好きだからなあ、腹八分でいけばいいのだ。まだ入学式が残っている。

 我が家に新しいクルマが来た。と言ってもカミさんが買ったのだが。軽にしろと言ったのに、5ナンバーを買いやがった、まあ、カミさんは小生より稼いでいるようだからな。いままでの軽は車検を取ったばかりだから軽トラでは不都合な時に小生が乗ることにする。小生は昔からコテコテのアンチトヨタだが、カミさんもどうもそのようである。


平成29年 3月23日(木)

 太郎を保育園に連れて行こうと思って外を見たら雨が降っていた、いつから降っていたのだろうか、気が付かなった。今の時期にしたら少し寒かった。そして結局一日降っていた。夕方ようやく回復方向に向かい、雲が晴れると阿蘇五岳に雪が降っていた(写真1写真2)。今年はいつもの年に比べて気温が低い日が続いているので、桜の開花もその分遅れるだろう。
      最低気温 4.3℃ (但し、19:03現在、夜に入って更新している)、最高気温 5.7℃ (12:18)
      
      
 去年はスーパーに行く度にグリンピースを探したが目につかず、とうとう豆ご飯を食べられなかった、それに対して、今年は今の時期、いつ行ってもグリンピースがある。というわけで、今日も豆ご飯を作った。
 
 晩飯。豆ご飯、ひき肉とタマネギみじんを入れたオムレツ、アサリの味噌汁
 
 どこかのサイトに、戦前から計画されていた国鉄の鉄道路線が全部計画通り実施されていたらという、鉄道網の地図が現在の路線を基礎にして作ってアップされていた。全国の分があったが、興味があるのは九州だから、九州分だけ転載した。こうしてみると、鉄道だらけになるはずだったのだ。当然、高森から延岡までの延伸もあれば、垂水から高森までの線も計画にあったのだ。
 
 名古屋城が木造で復元されるそうだ、どせなら木造の方がいい、ビルじゃあ面白くもなんともない、地震で壊れた熊本城はまたビルとして再建されるそうだが、どうしてビルが良いのだろう、隣りにある宇土櫓は往時の木造のままである、天下の熊本城、どうせやるなら木造がいいだろうに、小生は宇土櫓のほうが好きである。

 ※ 墓起こし技術備忘録。(また今度あったときのため。多分忘れないと思うが)

これは安全上(安全衛生法)の見地からは絶対にやってはいけない方法である、これを読んで良い子は(良いおじさんも)決して真似をしないように。

 チェンブロックで墓石を「ベルトスリング」一点吊りで吊る場合(この場合の墓石は表面がデコボコ、ザラザラした摩擦抵抗の大きい墓石、たとえば溶結凝灰岩などに限る。研磨してあって滑りやすい御影石では絶対にやってはならない)。

 チェンブロックは吊り荷を上下方向にしか動かせない、だから三脚自体を動かさなければクレーンのように横移動は出来無い。しかし荷物を吊った状態で三脚を横移動なんか重くて絶対に出来無い(それが出来るくらいなら最初からチェンブロックを使う必要など無い)。
 それから、基本的には三脚を設置する時には墓石を置く場所(基台)の真ん中にチェンブロックの中心が来るように三脚を持って来なければならない(正確に言うと吊った墓石が傾いている分その位置は少し石方向にずれることになるが)。
 
 しかし、実際には色々と問題がある。まず、墓石は基台から離れたところに落ちて倒れている、だから、基台の真上に三脚の中心を置いてた状態でそこから離れた位置にある石を吊り上げることが出来るかである。
 
 チェンブロックから延びているフックが垂線から大きく離れている状況で、重い石を上げようとすると、三脚の脚が浮いて倒れる。石は絶対に三脚の三点が描く三角形の内側の、それも、なるべく中心に近くになければならない。たとえ三角形の内側であっても、それが三角形中心から遠いと石が重いので三脚の脚が浮いて倒れる。少し引き上げてみるとそれがわかる、三脚が浮く方向に動くか、めり込む方向に動くか。
 
 で、条件が良くて、つまり、基台の中心付近に三脚があって、墓石が基台の直ぐ下に落ちている場合、ベルトスリングを倒れている墓石のなるべく頭に近い方に巻いて、引き上げる、そのほうが墓石の傾きが小さくて位置決が決めやすいうえに後で書くが安置しやすいからである。しかし、ベルトを巻く位置があまり頭に近いと、ベルトを鉢巻に巻いただけなので、引き起こして、更に吊り上げた時に石が滑り落ちる恐れが十分にあるので注意しなければならない。 
 
 こうやって無事に吊り上がった時に、墓石は基台の真上付近にあるわけだから、そのまま下に下ろせば無事に基台の上に墓石が戻る・・・・・・・と思ったら、実はそうはいかなかった。
 
 これが一点斜め吊りでなくて水平に吊り上げたのであればメデタシメデタシとなるところだが、一点斜め吊りなので、水平にはならず、石の底の一辺だけだが基台に着いた状態になり、これをこのままチェンブロックのワイヤを緩めると、どうなるか、その場所では直立するほうには絶対に倒れず、そのまま傾いた方向に更に倒れてくる。じゃあと、直立直前で、あともう少し引っ張れば直立しそうなので、気持ちとしてはワイヤーを少し巻きあげて、倒れている分だけ起こしたいところだが、既に目いっぱい引っ張った状態なので更に巻き上げると折角着地した石がまた浮き上がって石が宙吊りになってしまう。緩めても引っ張ってもこのままでは絶対に直立はしないのである、これが斜め吊りの宿命で、実際にやってみて気がついた。
 
 石の底辺が基台に着地している状態で吊っているワイヤーを倒れている方向と逆方向に横移動することが出来たら、直立するが、チェンブロックは先に書いたように吊ったままで横移動できないのである、進退極まった状態になる。
 
 そこで考えた・・・
 
 こうするのである、一見逆のようだが、少し傾いた状態のものを更にもう少しチェーンを緩めて更に傾きを大きくするのである。そうやって前よりも大きく倒した石を、やおら、うんとこしょ、と人力で起こすのである。さっきは垂直でめいっぱいワイヤーが張った状態だったから、びくともしなかったが、今度は少し傾けた分だけ垂直方向に比べてワイヤに余裕が出来ているので、直立させる事ができるのである。
 
 非常に重い石でも、一片が着地していて、ほぼ直立に近い状態から少し傾いているだけだから人力で十分に押して立てることができる(押して起こすのが危険だと思ったら、反対方向から引っ張って起こせばいい、そのあたりは状況判断である、まあ引っ張ったほうが良いかな)。

 それから、周囲の環境で三脚を置く場所が好きに選べない場合など、いくらここに、と決めていても、そうそう決めた場所には石を安置できるわけではない。じゃあ置きたい位置からずれた場所に石の一辺が来てしまった場合はどうするか。
 
 これは少々トリッキーな方法になるが、この場合は、基本的には、もう一度最初からやり直しで、三脚の位置を調整して再挑戦できればいいが、それはまた面倒でもあるので、着地していた石を一旦また少し巻き上げて完全に浮かせた状態で、ブランコのように押してしばらくスイングさせる。そして、このあたりだなと思ったところで、チェンブロックの鎖を一気に緩めると、上手くいくと、狙った所にストンと落ちる、これは経験である。この方法でやるとかなりの幅をカバーできる。一見何と危険なことをと見えるかもしれないが、スイングさせると言ってもそんなに大きく揺らすわけでなく、しかも手で押してスイングさせる場合は、万一ベルトが外れても良いように、石が倒れてこない側に立って離れて押すので、しかもチェーンも長くて、離れて操作できるので考えるほど危険なことは無い。
 
 以上のようにして目的とする場所にうまく石を安置出来たとしてもさらに微調整が必要になる。この場合も鉢巻にしたベルトを外す前にほんの僅か浮くか浮かない程度に気持ち巻き上げて、その状態で石を抱くようにして動かすと意外と力が要らずに横でも縦でも動かすことが出来る。
 
 
平成29年 3月22日(水)

 今日は穏やかに晴れた。
     最低気温 1.1℃(06:38)、最高気温 12.1℃ (14:18)

 太郎のやつ、最近文字を覚えて嬉しくてしょうがないようだ、今朝も保育園に送る車の中で、なになにチャンと、だれだれチャンと・・・に手紙を書いたと並べて見せてくれた、そう言えば昨夕、「おとうさん、シマに手紙かいたけんシマのお墓においてくる」、と断って出ていった。小生、ほう、そうか、と聞き流していた、それを思い出して、太郎を保育園に送ってからシマの墓のところに行ってみるとちゃんと手紙が置いてあった、果たして何と書いてあるのやら。見るとなかなかしっかりとした字だ、それに「え」と「へ」をしっかり使い分けている、しかも、まる○に「た」など、どこでそんな知恵を付けたのだろう。

 宮地(東二区)まで薪材をもらいに行ってきた。先日、お宅では薪が要ると聞いて来たのだがと言って、知らない人が突然訪ねてきた、志賀Sさんとおっしゃる方で、どなたからお聞きになられました?と尋ねると、近くの大塚某さんだとの事。小生はその大塚さんとおっしゃる方も全く存じ上げない、どのような経路で我が家が薪材を必要としているのが伝わったのか、我が家もなかなか有名になったものである。話を伺うと庭のケヤキの木を切ったので取りに来てくれということであったので喜んで、ということで午前中に出掛けて行って積んできた、軽トラック一杯あった

 午前中の薪材積み込み作業に続いて昼から、墓起こしに使った機材の山下ろしをした。腕が「棒のように」なった状態でぶっ続けで力仕事をした。面倒なことは何事も先送りする小生にしては極めて珍しいことである。多分、墓起こしの際の「勢い」が続いていたのだろう。もう少し時間が経つと、このままいつまでも放置しっぱなしになっていたと思う。
 
 パイプやチェンブロック類を担いで都合ニ往復半掛けて降ろしてきた。二往復半の「半」というのは、途中まで降ろしてきたけど重さに耐えかねて放置して半分だけ降ろして、後から放置した分を取りに登ったというわけである。仕事量としては同じだが、歩いた距離はニ往復半ということである。風呂に行って鏡を見たら、肩に担いだ跡が出血していた。これにて今回の墓復旧作業完全に終了、ミッションコンプリートである。山道に椿の花が沢山散っていたが、見るとほとんどの花が上を向いて落ちている。これには何か自然界の理由でもあるのだろうか、上を向いた落ちたほうが見て綺麗だからという理由ではあるまい、何か理由がありそうだ。
 
 今日は阿蘇神社の春を告げる農耕催事「火振り神事」があった(日記を書いている時点では「ing」だが)。小生はここに来た最初の年の火振り神事に参加して火のついたカヤの束をくるくると回した経験がある、その時以来「火振り神事」には行っていない。今年は娘が、中学校の仲間たちとボランティアで参加して、来場者に「火振り神事」の由来などを場内放送(だったかな?)で説明することになっているそうで参加した。そういうこともあって、今夜は太郎も母親と一緒に阿蘇神社に出掛けて行った、小生は留守番をした。

 一人だから夕飯に何を食べようかと考えたが、とろろ汁を食べたくなったので山芋を買ってきて一人で作って食べた、小生はつくづく食うことには手間を惜しまないなあ。(写真1写真2写真3写真4写真5写真6
 
 65.3


平成29年 3月21日(火)

 昨日から降り始めた雨、今日の午前中には上がったものの、終日空は暗く、日が暮れる頃になってようやく回復してきた。昨日は春分の日だったが雨で日没時の太陽の姿が拝めなかったが、今日、風呂から帰る途中、真っ赤な太陽が回復した空に沈みかけていたので一日遅れで北回帰線と南回帰線の真ん中に沈む太陽の写真を撮ることができるなあと思って急いで帰ってカメラを構えて待っていたら、地平線に近づくにつれて雲が邪魔をしてとうとう太陽の姿を撮ることができなかった。今日はこのあたり(NTTアンテナの向こう)に沈んだ。これはこのあたりである
     最低気温 6.1℃ (19:33)、最高気温 9.4℃ (08:06)
     
 靖国神社の標準木のソメイヨシノが開花したそうである、東京が全国で一番早い開花だということである。ここはいつ頃だろうか。

 晩飯。麻婆豆腐、エビチリ、中華スープ


平成29年 3月20日(月) 春分の日(春季皇霊祭)お彼岸

 曇り後、午前中から予報通り雨になる。春分の日、夏至、秋分の日、冬至など節目節目に日没の写真を撮ろうと思っても、この日はなかなか晴れることが少ない(気がする)。今日も全く太陽とは無縁の日になった。
    最低気温 4.7℃ (02:18)、最高気温 9.9℃ (14:19)

 午前中、まだ雨が降り始める前、今年始めてコジュケイのけたたましい鳴き声を聞いた。
 
 さすがに昨日は疲れたのだろう、今朝は6時まで一度も目覚めることなく熟睡した。腕を使う作業が圧倒的に多かったので筋肉痛で腕を上げると痛い、でも疲れ自体は一晩寝て完全に取れた。

 今日はお彼岸、あいにくの天気で午前中から雨になった。昨日の墓起こしをして、そうだ、坂梨の霊園に分家の墓があった事を思い出した。数年前に偶然にその墓の存在を知ったのだが、日頃のお付き合いは無いがご縁者が墓の管理をしておいでである、遠方にお住まいなのでなかなか阿蘇まで上っておいでになるのが難しいようだ。そこで小生はお盆やお彼岸の時に気がついたらであるが掃除をしたりしている。そんなわけで、今朝、思い立って雨が来ないうちにとお参りに行ってきた。冬が過ぎたばかりだからまだ雑草は大丈夫だろうと、掃除道具を持って行かなかった。ちょっと草が生えていたが、ご勘弁願って花を手向けてきた。すぐ近くにある先年鬼籍に入った阿蘇坊主殿の墓前にも手を合わせてきた。周囲を見回すと、いつも感じるのだがこの地方の風習なのだろうか、テレビのニュースなどで流れるようなお彼岸の墓参りの風景は見られない、どの墓もほとんど花などを生けているところはない。ここではお盆の時には盛大に供養をするがお彼岸の時にはあまりその様子は無いようである。
 
 我が家の仏壇にも、花と後藤まんじゅう店のオハギをお供えした。花は(庭に総て勝手に)咲いている、椿、水仙、梅の花、それに菜の花。菜の花は我が家の畑ではちょっと見当たらなかったので、妙法寺の土手からもらってきた。

 昨年の秋口に死んだ猫のシマの墓、そのうちにと思っていながら墓標も作らずに埋葬地点に目印の棒を立てたままにしてあったが、これも全く今日がお彼岸だということとは無関係で、偶然に朝、庭に出て、気がついて適当な石があったので墓標として置いた、それがたまたまお彼岸だったということである、これも仏縁と言うものだろう。夕方写真を撮りに行ったらシマの墓前に水仙の花と何か飾りものが置いてあった、太郎が置いたのだろう。そう言えば太郎は墓起こしで山に登った時に、木の枝に葉っぱを巻きつけて蔓で結んで何かを作っていた、特に意味は無いのだろうが、手慰みで作ったのだろう。
 
 今の墓石は殆どが御影石を研磨して作ってある、だから表面がツルツルピカピカである。これに対して、この地方の昔の墓石は殆どが阿蘇火山から噴出して出来た溶結凝灰岩で作られている。この石は古くは古墳時代の石棺、あるいは通潤橋などに代表される熊本地方に多い石橋の材料などに使われた、また皇居の二重橋も肥後の石工たちがこの石材を使って作ったと聞いている。この石は入手しやすくやわらかくて加工がし易かったからだろう、その反面、厳しい風雪に耐えきれず長い年月の間に風化しやすいという欠点があると思われる。我が家や周辺の墓石も全部これで出来ていて、だから彫られた文字もかなり摩耗している。そして、現在の御影石のように研磨してないので(あるいは研磨できないのか)表面がザラザラである。我が家の一番新しい曽祖父と祖父合葬の墓石は近年に作ったものだから御影石である。この御影石の墓石は地震で倒れることは免れて立ったままの状態で少し回転していたので、吊り上げることをせずにその回転をもとに戻せば済んだのでそれほどの力はは要しなかった。これがもし下に落ちていたら、四面全部がツルツルに磨いてあるので元の場所に戻すのは大変だったろう、滑るので危なくて専用工具無しで小生が引き上げることはできなかったと思う。それに対して、昔の古い時代の墓石は、ワイヤーだとちょっと分からないが、布製のベルトスリングを使って吊ると相当いい加減な吊り方でも絶対と言っていいほど外れることがない、だから小生は墓起こしを商売にしようかと思ったが、これは古い墓石に限るという条件付きになるな。

 今日の日記を書いて読み返すと「墓づくし」の日記になった。南無・・・・・・・・・・・・


平成29年 3月19日(日)

 今日は穏やかで暖かい一日だった、ここしばらく途絶えていたウグイスの鳴き声が聞こえた、キツツキも盛んカンカンと木をつついていた。昨日の雨、現場に置いてきた道具類には、木々の葉が覆いになってほとんど濡れていなかった。
      最低気温 1.8℃ (04:41)、最高気温 15.6℃ (14:21)

 今日も太郎は墓起こしに同行する方を選んだ。そして自転車用のヘルメットがあったのでしっかりと着用させた。
 今日の復旧現場は、昨日の場所と違って、傾斜地。三脚の二段継ぎを利用して、水平を維持した。これは数年前に、台風で墓が倒れた時に義父の応援で墓起をした際に、三脚が水平でないと危険だと感じたことから学んだことだ。
 
 ひとつの墓石を復旧して次の墓石に移動する時は、チェンブロックを付けたままだと非常に頭が重くて、ちょっとバランスを崩すと三脚が倒れる、この三脚はチェンブロックが付いていない状態でもひとりではなかなか起こせないほど重いものである。平地であればいいが、傾斜地になるとこれが非常に大変な作業になる、面倒でもその度に、チェンブロックを外してまた吊り直す作業をしなければならない。今日も一基目が非常に難渋して、ほぼ昼までかかってしまった。
 
 昼食後は順調で、午後ニ時ころには、我が家の墓地の復旧は総て終わった。お節介だとは思ったがご近所の墓地の倒れた墓石を四基ほど起こしておいたが、他家の墓石なので写真は割愛した。
 
 午後三時には総て終わって、後片付けをして、四時ころ山を下りてきた、今日は特に精も根も使い果たして、何度かに分けて持って上がった工具類をたくさん一度に持って下りたせいもあって、山を下りきてお寺の山門の階段を下りる時、体が動かなくなってしばらく座り込んだくらいだ。まだ単管パイプやチェンブロックなどの重量物が残っているので後日三四度は山に取りに行かなければなるまい。
 
 太郎がとにかくよくやってくれた、ちょこまかちょこまか手先になって動いてくれた、太郎くらいの労働力でも、居ると居ないでは大違い、全く危険要素のないテンションも何もかかっていないチェンブロックの空の鎖も一生懸命に繰ってくれた。ギア比の関係で、空の鎖を上げ下げするのは実に時間がかかる作業なのだ。三脚を移動する時、墓石は揚げる時、危ないから退避!退避!と声を掛けるとさっと遠くに離れていた。

 周囲に自分以外の人間が居ると、特にそれが幼い人間であれば、非常に気を配らなければならず、一人で作業をする場合に比べて疲れるものであるが、それ以上に、すぐそばに、仲間、相棒、バディが居るという喜び、安心感、これはそれ以上のものがある。なによりそれが我が子だからなあ、本当にいい数日だった。別にその日を狙ったわけではないが、明日がちょうどお彼岸の中日だ、結果的に良い供養になった。

 墓起こし作業 パート4 連続写真 (1/4)
 墓起こし作業 パート4 連続写真 (2/4)
 墓起こし作業 パート4 連続写真 (3/4)
 墓起こし作業 パート4 連続写真 (4/4)
平成28年11月17日 準備作業の開始・・・・チェンブロック設置のため単管パイプを運び上げる。
年が明けて
平成29年3月15日 準備・・チェンブロック運び上げ(旧臘12月に大腸癌の手術をしたこともあってしばらくブランクがあった)。
29.3.16   墓引起し作業 第一日目 (作業開始)
29.3.17   墓引起し作業 第ニ日目
29.3.18   墓引起し作業 第三日目 太郎参加
29.3.19   墓引起し作業 第四日目(最終日) 太郎参加
これだけの墓群の復旧を専門家に頼らずに自力でやったという達成感、充実感、満足感・・・・正直気分がいい。
(まだ後片付けが残っている)
 今晩は、娘の吹奏楽部の三年生を送る夕食会だったかで、娘と母親が出掛けていって、小生と太郎はネグレクト状態、メシの支度がしてなかったので、二人でジョイフルに行った、太郎はかえってそのほうが喜ぶ。
 
 ここ数日の重労働で、今日量ったら体重が65.7キロまで落ちていた、一昨日だったか食べたステーキはそのまま血となり肉とはなっていなかったようだ。


平成29年 3月18日(土)

 ずっと雲がかかって山は少し寒かった、夕方から雨になった、昨日も今日も明日も晴れマーク、降雨確率ゼロじゃなかったのか、ゼロということはゼロなんだろう、どうして雨が降るんだ、音を立ててしかもしばらく降り続いていたではないか、これだけ自信を持って晴れと言うものだから、墓復旧作業の道具全く何も養生しなくて山に置きっぱなしにしてきたぞ、どうしてくれるのだ、気象庁のバカヤロー。
    最低気温 -2.1℃ (06:47)、最高気温 12.7℃ (12:16)

 今日は太郎は、姉が参加する音楽の催しに昼ころから母親と出かける予定にしていたが、小生が山に登るというのを聞いて、自分も山に登りたいと言い出して、それじゃあ、その前に行く書道の練習が終わったら、弁当を持ってお母さんに連れてきてもらえと言い置いて小生だけ山に登ったが、作業に必要なものが生じたので、一旦山を降りて家に帰ると太郎が正に母親に連れられて出かけようとしていたところだったので、カミさんから引き継いで太郎を連れて山に登った。
 
 小生が取りに戻ったものは、脚立である。今日の作業では二本継ぎの三脚を一本に短縮してもチェンブロックを引っ掛けるにはコンテナでは高さが足りずに、結局脚立をに取りに帰ったのである。太郎は母親にお昼の弁当とおやつを入れてもらってそれを担いで山に登ってきた。

 昨日のおおどころは済んだので今日は楽だろうと思って始めたが、最初の一基目で予想以上に手間取って、一基だけでほぼ午前中いっぱいかかってしまった。
 
 簡単にいくと思っていた倒れた石組を元に戻す作業、建立当時はちょっとした凹凸もうまく調整して削ったのだろう、よほど上手く合わせないとグラグラしてピタリと合わない、昔の石工の腕は大したものである。ちょっとしたズレだがピタリと来ない。何度もやり直してようやくその要領を掴んだ、その途中、お父さん、その石は上下が逆さまじゃないと?と太郎からダメ出しが出て、おお、そうだなあ、下の台(蓮台)と比べたら、上の台(蓮台)は逆だなあと、やりなおしたら、ほぞ穴で確認して間違っていなかったりと思った以上に時間がかかってしまった。それに昨日の大物比べたら、今日のは楽勝と気を許していたので、墓石をちょっと縁石に寝かせようとして指を挟んで血豆が出来てしまった。正に「高名の木登り」である、改めて心を引き締め直した。
 
 太郎にも完全に安全が確保できた状況で、空の滑車を下ろすのを手伝わせたり、隙間に木を差し込むのを手伝わせたりして、本人も一人工になったつもりで張り切っていた。子供用のヘルメットが必要だな。今回は頭上から物が落ちてくるということはあまりないがそれでも、三脚のパイプで何度も頭を打っているのでヘルメットを被っていて助かった。何が起きるか分からないのでヘルメットは絶対に必要だと感じた。そういえば、自転車用のやつがあったなあ。
 
 一基目は非常に苦労したが、その後はトントン拍子、全体の半分以上は今日一日で復旧できた、明日は残るところ数基である、ここまでくれば明日中に終わる。今日は明日やるところに三脚を移動させて準備だけして本日の作業を終了した、午後3時前だった。
 
 今日は予報では晴れとなっていたが、ずっと曇っていて山の上は少し寒いくらいだった。MQY局に珈琲がありますよと声を掛けたら、DIさんのところに寄ったついでに山を登って来てくれた。
 
 今回の墓起こしで感じたことは、墓石というものは極めて倒れやすいものだと言うことである。熊本地震で数千基の墓石が倒れたものと思われるが、墓石は基本的には、ホゾ組をせずにただ置いてあるものが多い、またホゾ組があるものも穴が浅い、それでも石自体が非常に重いのでそれで足りるのだろうが、今回の地震のような大きな横揺れには弱かったと思うのである。基数をこなすにつれて墓起こしの要領を掴んできた、今回の地震で倒れたままの墓石、石材屋の手が回らずに手付かずのところが多いと聞く、これを機会にいっちょう墓起こし業でもやろうか。 

 太郎は退屈するかなと思っていたが、写真を撮ってくれたり、一人でクランプを使って怪獣を組み立てたり、木の枝に色々と手を加えて何かを作ったりと一人で遊んでいた。明日もまた登ると言っていたが明日は何か予定がなければまた連れて行ってやると言っておいたが、確か何か家の予定があったような気がする。

 墓起こし作業 パート3 連続写真 (1/4)
 墓起こし作業 パート3 連続写真 (2/4)
 墓起こし作業 パート3 連続写真 (3/4)
 
墓起こし作業 パート3 連続写真 (4/4)

 PCに向かって作業をしながらラジオを聴いていると、五島列島の椛島という離島で一人だけの小学生が卒業して、向後は休校になるそうである、これを聞いてネットで検索してみたところ
http://www.k-int.jp/~kabashimasho-chu/ や 
http://style.nikkei.com/article/DGXNASFH12007_S3A610C1000000?channel=DF210220171907&style=1 (2013年)見つかった。
児童数が少なくなって統廃合ができるところは統廃合するのだろうが、出来ない所はこうやって残るのだろう、日本の教育システムはすごいなあ、たとえ一人の児童でも、組織的に校長が居て、担任が必要なんだろうな、校長先生が兼任することは無いのだろうな。

 昨日ラジオで聞いた「大津から立野まで先行復旧工事」のこと、今朝の新聞に載っていた、要は全く何もかも目途はたっていないということだろう、これのどこがニュースなんだ、代替バスを走らせろ。
 
 夕方、三人組は夏子のピアノレッスンで泗水に出かけていった。


平成29年 3月17日(金)

 今日も気持ちよく晴れた。
     最低気温 -2.1℃ (06:07)、最高気温 13.2℃ (12:57)

 H2Aロケットの33号機が種子島から打ち上がった、もう、上がって当たり前だから、そのうちにニュースにもならなくなるかもしれない。このロケットには偵察衛星が乗っているそうで、安全保障に関わる関係で、衛星を切り離した正確な時間や高度などの情報を明らかにしていないほか、ロケットから地上に届いた映像も公開していないそうである、結構結構それで良い。
 
 今朝の打ち上げ時間の10時20分、種子島からのロケットの煙はさすがにここからは見えないだろうとは思ったが、それでももしかしたらと山に登るのをちょっと待って南の方向を見つめていたが、空は青かったが、やはり見えなかった

 そして、今日も墓の復旧作業に山に登った。今日地面に落ちていた墓誌の残り一基を引き上げた。重たいものなので、真っ直ぐに揚げないと、傾いた状態で揚げると浮いた途端にスイングして危ないうえに正しい設置場所に下ろすのが難しいので、三脚を設置場所の中心に置かなければ危ない。つまりチェンブロックのフックが墓石の中心に来なければダメだということである。だからその度に、長い三脚を少しずつ引っ張って位置を変える作業があるわけだが、これが重くて、また他の墓石が邪魔をして動かせないなど、実際に作業をしてみてその面倒さが分かった。
 
 作業が終わって最後に(雨に濡れて錆びないように次回まで)チェンブロック本体を三脚から取り外す際も、中央の墓標脇の一番高い場所に立って腕をいっぱいに伸ばさなければフックまで手が届かないので、そのためだけで三脚移動、しかも、チェンブロック本体の重量があるので、頭の上に腕を延ばしてフックを外すのは、重量挙げの容量で持ち上げなければならないので、これがまた大変で腕が棒のようになった(オイオイ、足が棒のようにとは言うが、腕が、とは言わないだろう・・・まあそうだろうな)。

 また三脚が重さに耐えきれずに、三脚の脚に噛ませてあるベースごと地中に30センチ以上埋まって、ようやくパイプは抜くことが出来たが、いくら探してもベースが出てこない、結局「泉下」まで落ちていったのだろう、一個は回収できたがとうとう二個は見つけることができなかった。墓地の土は柔らかいので、この程度のベースでは役に立たないのだ、それで、板切れを持ってきて、ベース代わりにした、この方が地面に当たる面積が広いからめり込まなくて済む。
 
 埋まった三脚を引き抜くために、二連にしてあるパイプを分解して地中に埋まっている方のパイプを抜こうとクランプのネジを緩めたところ、そのナットが何処かに飛んでしまっていくら探しても見つからない、クランプのネジは最後まで外れないようになっているはずなのに取れて失くなってしまった。これがいくら探しても見つからない、空薬莢を演習場で失くして部隊全員で探す自衛隊員の心境が分かる、いくら探しても無いのだ。仕方ないので、番線で応急措置をして、昼から登る時に別のクランプを持って上がって付け直した。

 危なっかしい吊り方だなあ、危ないよ、抜けるぞ、という声がどこかからか掛かりそうだが、それは十分承知の上でやった、これが鋼材なら摩擦抵抗が低くて滑るのは間違いがないが、墓石は御影石の表面を除いて三面は磨いてなくてデコボコしている上にワイヤでなくてベルトスリングだから絶対に滑らないという自信があった、それでも万一ということがあるので、その部分に全神経を集めて作業をした、まあ監督署的にはアウトだろうな。
 
 今日でようやく、一番のおおどころの大きな墓石の復旧が終わった。残る作業は今回のものに比べたら小さな墓石だがそれでも石である、重い、人力では絶対い起こせない、ただ、基本的には今回のように二段継ぎの三脚の必要が無いので、作業は楽になると思う、でも結構数がある。
 
 チェンブロックを使った場合、エネルギー保存の法則との関係はどうなるのだろう、とにかくチェンを際限なく繰ったので、しかも、チェンブロック本体を頭の上に持ち上げたり下ろしたり、また揚げた石を押して動かして決まった場所に置くためにかなりの力を消耗した、もうヘトヘトで腰も痛い、それに何度荷物を持って山登りをしたことだろう。山を登りながらそろそろ太郎もちょっとした山なら登ることができるだろう、小生の衰えていく体力はそれと反比例だが、九重あたりだと行けるだろうか、「坊がつる」というところに小生一度登ってみたいんだな。

 墓起こし作業 パート2 連続写真 (1/2)
 墓起こし作業 パート2 連続写真 (2/2)

 f-JR九州の「ななつぼし」を始め、JRは次々にこんな列車を作っているが、そして、作るのは一向に構わないが、本末転倒するなよ、先ず、基本、最低限の利用者の足の確保だけはやってくれよな、肥後大津〜「阿蘇」間の代替バス動かせよ!夕方のニュースで、とりあえず大津から立野まで先行復旧工事を始めるとか言っていた、やらないよりマシかもしれないが、たとえ立野まで走っても、南阿蘇鉄道は立野からはダメだぞ、それに、立野から阿蘇までは全く目途が立っていないという。f-JR九州の「地域の復興の後押しをしたい」というコメント、白々しい、復旧の後押しをしたいというのなら、代行バスを走らせろ。

 今回68キロで節食を初めて、今日、入浴時に量ったところ、ここ二日ばかりの重労働のせいもあってか65.9キロで、ようやく66キロを切った。しかし今晩の夕食でそれも帳消しになるだろう。今晩は、保育園の保護者会の役員の慰労会がありカミさんと太郎が出掛けたので、娘と二人の夕食になった。
 
 それで今晩は、ステーキにした。小生は一応節食中なので、200グラム(どこが節食中だ)、娘に大きい方をやって250グラム。もちろんアメリカ産だ、国産とアメリカ産の値段は三倍の開きがある。肉の他に、グラッセやサラダなどを付けたので、娘、さすがに食べきれずに残した、小生もパンパンである。
 
 時々思うのだが、200グラムの肉を食べると、物理的に食べた直後は体重が200グラム増える、それが時間が経つと自分の血と肉に変化するわけだが、その結果200グラムより増えるのだろうか減るのだろうか、小生は別に悩んではいないが体重の増加に悩む人はそんなことを考えたことは無いのだろうか。


平成29年 3月16日(木)

 晴れ。穏やかに晴れる。
    最低気温 -1.7℃ (06:52)、最高気温 11.3℃ (14:17)

 去年苗を買ってきて入り口のところに植えておいた沈丁花がようやく綻んだ、小生は花の中で沈丁花の匂いが一番好きである。この匂いを嗅ぐと、ああ、春だなあと感じる、幼いころの貘とした思い出と言おうか記憶と言おうか、この匂いで蘇るだ。(写真1写真2)

 今日は一日中墓起こしをした。当初の予定では、午前中一時間ほど作業をして、昼にプールに行って、午後からまた墓起こしの続きをやろうかと思っていたが、とんでもない、午前中の部は、午後一時過ぎにようやく一区切り付けることが出来たほど苦労した。
 
 昨日チェンブロック本体を持っていったので、今日は、細々とした、多分使うかもしれないという工具類を持って、ボンの散歩が終わって直ぐに山に登った。今日の予定は、一番大きな墓石が地震でくるっと少し回っているのを元の位置に戻すことと、一緒に立っていた墓誌が二基、完全に下の落ちているのをできる範囲で復旧することであった。
 
 先ず、クルッと回っている墓石をチェンブロックで少し浮かせて回そうとしたが、墓石を吊るクランプがないので掴みどころがなくて、なかなか浮かせる事ができない、ああでもない、こうでもないと色々試行錯誤して、ようやく元の位置に戻すことが出来た。次に、地面に落ちている墓誌のうち、一つは完全に地べたに平らに落ちてしかも重みで少し埋まっていて、とてもその下にワイヤーを通すことが出来ないので、もう一基の方の引き揚げをした。これは隙間があるので、ベルトスリングを通すことができる。とにかく常に直ぐに逃げる準備をしながら、吊り上げて、なんとか、元の位置に戻すことが出来た。ヘルメットに安全靴を履いてSafetyfirstで作業をした。ここまでの作業で、丁度午後一時になっていた。
 
 昼食を摂るべく一旦山を降りて、昼食休みの後、べったり沈んでいる墓誌を引き起こすべく、バールや板切れなどを持って登った。墓誌の下にバールを入れてテコの原理で少し隙間が空いたところに、木切れを突っ込んで、その次にまた少し大きな木切れを入れてと、何度か繰り返して、ようやく地べたから墓誌を少し浮かせる事ができたので、ベルトスリングを通して、吊って基台部分に立てかけるところまでやって今日は時間切れ、晩飯を作る準備のために山を降りてきた。テコの原理で重たいものを浮かせる場合、二人いれば、一人が浮いた隙間に木などを入れることができるが、一人でやると、全体重を掛けて浮かせた状態で、木を突っ込むのは、その場所を動くわけにいかないので、これが結構大変なのである。
 
 ここまでくれば、後は楽であろう。その他の倒壊している墓標は今日やった墓石に比べたら可愛いものである。

 墓起こし作業 連続写真 
 
  もう随分前になるが、ローカルのハム仲間、昔、放射線技師をしていた時に使っていた計算尺をカーソルが片面割れて無くなっているけどと、くれたことがある。オークションでそのカーソルだけが出ていたので、手に入れた

 今日も太郎のやつ、保育園から帰り、走るという。もう今日はいいだろうと言ったのだが、走ると言うので、仕方がないから付き合った。夕方は忙しいので小生は少しでも早く帰りたいのだがせっかくのヤル気、削いではいけないのだろうな。

 今日も保育園から家まで走って帰る 連続写真
 
 晩飯。ハヤシライス


平成29年 3月15日(水)

 朝のうち、今日はいい天気かなと思ったが、あまり日も照らず、風があって、寒々とした一日だった。
     最低気温 1.6℃ (04:58)、最高気温 8.7℃ (15:13)

 今日は何をしようか、畜協から堆肥買ってきて畑に振ろうか、でも畑が雨の後で少し柔らかすぎてタイヤがは嵌まるなあ、薪も急ぎではないなあ、今日は風が少し冷たくて外作業には向いていないなあ、ということで、何をしようかと考えているうちに時間があまり無くなってしまった。そうだ、墓起こしがまだだったなあ、ということで、今日はチェンブロクを山の上に持っていく作業をした。三脚は組み立て済みなので、あとはチェンブロック本体を持って行けばほぼ作業準備は終わることになる。このチェンブロックが結構重たい、10キロくらいあるだろうか、そんなににはないな、それでも重いので、ミカンコンテナーに入れてベルトを通して肩に掛けるようにして休み休みで持って上がった。あとはそのうちに日和を選んで注意してやるだけだ、ちょっと、試しに一番おおどこどろの墓石をちょとだけ揚げてみたが、うまくいきそうだ。
 
 この墓石はどのくらいあるのだろうと、測ってみた。大きなやつが三つある。先ず墓標、36.5cm*36.5cm*90cmだから、約120,000cm3である。御影石の比重が約2.7g/cm3だそうだから、120,000*2.7=324,000gつまり324キロだ、それから次に大きな墓誌が2基、60cm*100cm*16.5cmだから、 99000cm3、よって、99,000×2.7=267,300gつまり267キロか。小錦が約290キロという記録がある、稀勢の里は180キロくらいか。相撲取りは重いんだなあ。
 
 太郎を夕方保育園に迎えに行くと、ブランコで遊んだりしてなかなか直ぐに車に乗らないことがある、そんな時、小生、しびれを切らせて、見切り発車で少し走って待っていると、あわてて車のところまで走って来る。それでもせいぜい2〜30メートル位である。それを今日は、相当離れて、角を曲がって小学校の体育館の駐車場のところで待っていると、息せき切って走ってきたので、乗れ!と言ったところ、このまま家まで走る!というので、冗談のつもりで走るか?ウン、走る!本当かあ、じゃあ走れ!ということで、走り始めた。信号のところでは、信号がちゃんと青になるまで待って、手を挙げて渡って、国道を横断して田んぼの中に。小生、付かず離れずでそのうちに拾うつもりで注意していたが、途中二三度、ちょっと立ち止まったことはあったが、基本的には結構早いスピードで家まで走り抜いた、これにはお父ちゃん驚いた、長距離の弱い小生にはとても真似が出来ない、親ばかでなく大したものだ、これなら小学校の徒歩通学も楽勝だろう。
 
 保育園から自宅まで走って帰る 連続写真

 いつも、風呂に行く車の中で、お父さん、今日の晩御飯は何ね?というので、当ててみろというと、ヒントをちょうだいと言って、オカズの当っこをする。昨日の、や○○○○○キ、とジャ○○○○○トはそれほどいつも作るものではないので当てられなかった、そこで帰りの車の中で、お父さん明日の晩御飯は、炊き込みご飯が食べたい、それから、お刺身、出汁巻き玉子、ホウレンソウの味噌汁、と味噌汁の具まで指定してきた、お父さんはクジラの刺し身を食べるぞ、と言うと、太郎も勿論クジラを食べると言う。考えたら、炊き込みご飯の時はいつも、小生がこの組み合わせで作ることが多いのだが、太郎はいずれも好きなのでリクエストしてきたのだろう、もちろん何を作るか考えなくて済むので大歓迎で今晩はそのとおりにした。太郎のやつ、炊き込みご飯の時の味噌汁はホウレンソウに限る、と分かったようなことを言っていた、変なやつ。


平成29年 3月14日(火)

 朝、風が少し強かったが、太郎を保育園に送っていった時に園庭の近くの林からウグイスの鳴き声が聞こえた、今年初めてだ、なんだか非常に嬉しくなった。戻って家の周辺はどうだろうと耳を澄ませたが、保育園のある場所と豆札、わずかな距離しか離れていないが、まだ鳴き始める気温に達していないのだろうか。
       最低気温 4.2℃ (07:05)、最高気温 11.6℃ (14:57)

 昨夜、眼鏡のレンズを止めている小さなビスが外れて無くなった、眼鏡なしで糸で仮とめして、買った店ではないが宮地の阿蘇品時計店に持っていって直してもらった、お店のご一家、ちょっと存じ上げていたこともあって気持ちよくサービスでやっていただいた。

 二三日前、表の道路から我が家に入る取り付け道路を写すライブカメラ用のNotePCが壊れた、ディスプレーのバックライトが切れたのだろうか、古いPCだったのでもう寿命だろう、カメラサーバー用には転がっている古いPCを引っ張り出してきては使っているが次々に寿命が来ている。他のサーバー用のPCもアチラコチラでウイーン、カリカリと異音をだしているものばかりだ、ハチの動画カメラも最近おかしい、PCが悪いのか、カメラが悪いのか、ビデオキャプチャーが悪いのか、阿蘇の諸施設と同じように次々に休止、閉鎖状態になっている。さすがに最近は小生も何とかしようという情熱が少しずつ無くなって来ている。
 
 数日前の新聞記事に57号線の外輪山トンネル部の完成目標が20年夏とあったが、今朝の新聞に、阿蘇大橋も20年の秋完成を目標に工事が行われるらしい。2020年と言うとたったの三年後だ、両方いっぺんに完成するそうである、あっという間だ、お上の仕事にしては、えっそんなに早く?とちょっと眉に唾を付けたくもなる。考えてみたら、2020年というと、東京オリンピックが開催される年でもある。これに合わせようと言うわけでもないだろうが、2020年という年は何か特に曰くでもある年なのだろうか。

 今日は予定していたわけではないが、いつものごとく急に思い立って、畑などの雑草整理をした。草ぼうぼうの畑休耕田、一生懸命に草を刈らなくても放っておけば冬には枯れるという自然の摂理に従って、目論見通り綺麗に枯れたのはいいが、中には背丈ほどに伸びたちょっとした木のように太くなって立ち枯れている草もあって、この枯れ草は、いずれ生えてくる新しい草とどのような関係になるのだろう、新しい草がこれらを駆逐することはなくて、立ち枯れのまま残るのだろう、それはちょっと見苦しいな、と思ったので、刈払い機で切り倒した(写真1写真2)、そうしておけば、乾燥させて、野焼きをすれば燃えてしまうのではないだろうかと思っているのである。ただ、もと竹林だった場所は二三年前に畑を作ってマルチを剥がずにそのままにしてあって、ここを野焼きするわけにはいかない、10列ほどマルチ剥ぎをしなければならない、しっかり埋めてあってしかも土が固まっているので大仕事になる。これもいずれやらずばなるまいな。ジャガイモ畑作りやいろいろの植え付け作業や何やかにや、これから春になるといろいろと仕事が目白押しだ。
 
 結局刈払い作業は一日がかりになってしまった。一日がかりと言っても、家事というルーチンワークがあるから、だから、午前2時間、午後2時間くらいだろうか。

 昼、プールへ行く。@1,000m×1。いつもプールの後はそのまま風呂に行くが、夜にはまた太郎を連れて行かなければならず、一日に二度も入るのはちょっとシンドイので、今日はプールのあと、ジャグジーで体を温めて、シャワーを浴びて出てきた。

 晩飯。柳川もどき(どぜうの代わりに牛肉)、ジャーマンポテト、キャベツの千切りを揉んでキウリ、トマト、くずカニ缶入りサラダ


平成29年 3月13日(月)

 雨量は多くなかったものの、終日、降ったり止んだりの一日だった。それにちょっと肌寒かった。もう今の時期、寒くない季節にちょっと寒い場合に使う「肌寒い」という表現を使っている、そんな季節になった。「阿蘇山」は火山である、過去の幾度かの噴火で結構複雑な稜線をしている。光の関係でその凹凸が普段はあまりよくわからない、それが雲のかかり具合で適当にフィルターがかかって、ああ、こういう形をしているのかと改めて新鮮な気分で眺めることがある。今朝なんか仙酔尾根の稜線がハッキリ見えていた
     最低気温 5.7℃ (00:11)、最高気温 8.8℃ (12:46)

 二三日前の新聞に、国道57号線の北外輪山トンネルの完成予定年の記事が載っていた、トンネル部分が20年7月末完成目標となっているのを見て、なんだそんな先か、小生はとても生きていないなとそのまま読み流していたが、考えてみたら、いや考えるまでもなく、今は2017年で20年というと2020年じゃないか、そんなに直ぐなの?と改めて驚いた、それじゃあ、生きているなあ。今のトンネル掘削技術はそんなに進んでいるか。

 NHKのネットニュース、他の主催ネットでは相撲の結果が早々と出ているのに、出ない。大相撲はNHKがスポンサー局のようなも、そのつもりなら瞬時に結果を流せるだろう、これはテレビの定時ニュースより先に流すのは損だと思っているのだろう、なんともみみっちい。

 先日借りた本、「あおなり道場始末」、葉室麟にしては表紙からもなんとなく想像できるが随分と軽い小説だった、まあ、ハッキリ言って面白くなかった、借りてきたので読みきったが、時間の無駄だったようだ。

 太郎がこの4月からアゼリアの水泳教室に通うことになった。今日、風呂に行ったついでにサービスでもらえる水着の試着をして、バッグと一緒に貰ってきた。水着を試着する時にお姉さんに穿かせてもらって妙に照れていた。なんだ太郎、もうか?ちょっと早すぎるぞ・・・・栴檀は双葉より・・・・・。水泳教室ではいつも一緒の保育園のクラスメート、仲良しの泰増も一緒だそうだ。(写真1写真2写真3

晩飯。豆ご飯、中華あんかけ、白身魚の竜田揚げ、ワカメの酢の物、味噌汁。カミさん飯時に帰ってきた・・・・・・


平成29年 3月12日(日)

 晴れ。いやあ今日も実に気持ちのいい日だったなあ。今朝も太郎とボンの散歩に行った。ミツバチ内検、ヨシヨシ
     最低気温 -1.4℃(05:43)、最高気温 14.7℃ (15:35)

 日没少し前、いやに噴煙が上がっているなあ

 天気がいいので昨日に引き続いて、今日も薪を作ろうかなあと思って用意していると、太郎が何かを期待して、つまり、昨日の続きをしたいらしい。そうか、じゃあ、今日は本格的にテントを張って、また焚き火をして、お昼にはキャンプらしい食事をしようかね、薪作りは昼からにしようかね、と急遽予定を少し変更。
 
 家周りの切り倒してそのままにしてあった竹や休耕田の立ち枯れのまるで木のような太い草などを燃やしながらキャンプをしようかと屋根裏からテントを引っ張り出して、設営した。このテントは、今の我が家を建てるために阿蘇入りした初日に、野宿するために設営した時に使ったテントで、それ以来、屋根裏部屋にあったものだ。それにガスバーナーなども用意して本格モード。昼食は焼肉と握り飯をカミさんに用意してもらった。
 
 バーベキューコンロは、ドラム缶で作ったやつがあるが、ちょっと大きすぎるので、小人数用をこれまた屋根裏から引っ張り出してきた。昔、何かの景品で貰ったものだが、小さいので使うことはあるまいと仕舞いこんでいたやつだが、こういった小人数の時はなかなか役に立つ。 
 
 太郎は目を輝かせて大喜び、こんなに美味しいお昼ごはんは生まれて初めてだ、と言うので、昨日もそう言っていたろう、と言うとう、昨日に比べて今日はもっと美味しいと言っていた。娘は、今日は阿蘇神社の「火振り神事」のカヤの束を作るボランティアと部活があって不在、帰ってきて悔しがること。
 
 午前中穏やかで風もなかったので、テントにペグを打たなかったところ、昼から風が出てきて、テントがひっくり返って、大慌て。出来ることなら今晩は太郎とテントで寝ようかと思っていたが、今晩から明日に掛けて一荒れ来そうなのでテント宿泊は中止して昼食後テントを畳んで今日のキャンプはお開き、もう薪を作るエネルギーは残っていなかった、最後に昨日作った薪を太郎と二人で薪小屋に取り込んで本日の作業は終了、いやあ、連日でくたびれたぞ。 

 都会だとこのような計画、思い立っても直ぐにはできないが、田舎だと家の外に出ればすぐにでもできる、住むなら田舎だね。今度友達を呼んで娘達だけでバーベキューをさせるのもいいだろう。ただ、慣れていないとすぐにできる環境でも準備がけっこう大変だ、できたらケータリング用の道具類を大きな箱に入れて車輪でも付けて、いつでもパッと店開きができるようにしておくともっと頻繁にできるのになあとも思った。
 
 昨日に引き続いて
 焚き火・バーベキュー・キャンプごっこ 連続写真(1/3)
 焚き火・バーベキュー・キャンプごっこ 連続写真(2/3)
 
焚き火・バーベキュー・キャンプごっこ 連続写真(3/3)

 こんどは、アゼリア21の敷地内にある農産物直売所の「アゼリ庵」が閉店するらしい。これはJAが運営する店のようだ。当然営業不振が原因だろう。小生はかねがね、この店に関して、本当に商売をする気があるのかと思っていた。それは、多分JAの勤務時間をそのまま当てはめているのだろう、夏場の日が長いシーズンでも、午後5時になると閉店していた。まだ、真っ昼間のように太陽が上にある時間にだ。阿蘇を訪ねてきた観光客が温泉に入って帰るにはずっと早い時間だ、我々地元民でも夕方温泉に来たついでに店を利用しようと思っても、もう閉まっている、ここはお役所かといつも思っていた、こういうのを殿様商売だと言うのだな、黙っていても客は来るとでも思っているのだろうか、せめて夏場の営業時間を延ばすような知恵は働かなかったのか、これがサービス業だろうかと呆れて見ていた。またある時、店に入るガラス戸に「あとぜきおねがいします」と書いた紙が貼ってある。「あとぜき」とは「開けたらちゃんと閉める」のこの地方の方言である、これは端的で素晴らしい言葉だと思っている。もちろん貼ってある場所から凡その意味はわかるとは思うが、せっかくなら、「あとぜき」と貼ってあるそばに、「あとぜきとは・・・・・」という意味を説明して積極的に熊本の方言をPRする文章でも貼っておけば観光宣伝になるし話題提供にもなるでしょうとお店の人に提案したことがあるが、お店の人、どうもピンとこなかったようである。とにかく阿蘇は顧客志向の精神に欠けているところが非常に多いと思う、観光立市を謳っているのではないのか、阿蘇は。


平成29年 3月11日(土)

 東日本大震災、あれから6年か、犠牲者20,000人以上、今なお避難所ぐらし120,000人以上、まだ、そんなに・・・・・・

 今日も穏やかでいい天気だった、今日の温度差が凄い、もう春本番という雰囲気だ、太郎も一緒にボンの散歩に行った。ミツバチも春モードで元気いっぱいに活動を開始している、砂糖水があっというまに無くなっていたがもう給餌の必要もないだろう。まだまだ先だと思っていたが、婆様の一周忌の日に、確か分蜂をしたことがあった、ということはあと一ヶ月だ、阿蘇の分蜂もそんなに遅くないのだ、そろそろ準備をしなければなあ。
      最低気温 -3.2℃ (06:57)、最高気温 15.2℃ (15:05)

 今日は阿蘇市の中学校の卒業式だった。娘は式で「蛍の光」のピアノ伴奏をしたそうだ。家で練習をしていて間違ってばかりいたからお前大丈夫なのかと訊いたら、ダイジョウブ、本番に強いから、と言っていたが、帰ってからどうだったと尋ねると、パーフェクト、一回も間違わなかった、全然緊張しなかった、と言っていた(尤も本人が言っているだけだが)。あいつは神経が太いのか細いのかサッパリわからん。

 カミさんが午前中仕事に行くというので、太郎を近くに置いて薪作りをしようと思ったら、周辺に沢山の枯れ枝などが落ちているのを見て、太郎、お父さん焚き火をしようよ、というので、じゃあ付き合うかと薪作りの前に、枯れ枝枯れ竹を集めて燃やした。お陰で背の高い立ち枯れしていた草が無くなりきれいになった。焚き火をしているうちに太郎のやつ、気分が乗ってきたようで、お父さん、キャンプみたいだね、お昼、外で食べようと、と言いだしたので、カミさんが帰ってくるのを待たずに、チャーハンを作って、二人で外で食べた。めっちゃ美味しい、と外で食べる昼食に喜んでいた。都会なら郊外に出掛けて野っ原でメシを食うのが珍しいかもしれないが、ここでは野っ原だらけで別に珍しくないと思っていたが、やっぱり嬉しかったらしい、早速、切った薪を集めて、囲繞地を作って、これは太郎の家だと言って遊んでいた。昼から、薪を作った、くたびれた。

 
焚き火・薪作り・屋外作業連続写真

 夕方、三人組、泗水に娘のピアノレッスンで出掛けていった。


平成29年 3月10日(金)

 穏やかに晴れる、シミジミもう春だなあと感じる、足元をみると、昨日まで気がつかなかったが、小さな野草が花を付けている。オオイヌノフグリだったかな、それから、ホトケノザ、これはヒメオドリコソウだったな、春なんだなあ。
     最低気温 1.6℃ (01:03)、最高気温 11.4℃ (15:23)

 3.11や9.11と同じように、「3月10日」というと随分時間が離れているが条件反射的に「大空襲」という言葉が連想される。こういった記憶に残る日付は不幸事ばかりで、あまり慶事では無いような気がする。今日はそういった日だ。

 野草のフキの名前の由来、じっちゃいが今日のブログで取り上げているが、戦時中、(と書いて、もう戦時中がいつを指すのか知らない人が多いのだろうが)、空襲で焼け出されて、博多から母と祖母のもと、この地に疎開してきたが(父親は仕事で向こうに残って、妹は終戦後まもなく疎開中のここで生まれた)、母が生前、当時、紙がなくて、草むらに行って用を足して、しゃがんだまま手を伸ばして、そのあたりの草をむしってお尻を拭いたと後年折に触れて懐かしそうに話をしていたことを思い出す。多分、フキの葉っぱだったのだろう。福岡大空襲は今風に言えば6.19になるか、昭和20年だぞ。
 
 ウンコつながり。今朝、太郎が、お父さん、ボンがまたおらんバイと言うので、呼ぶと、トコトコ掛けてきた。先日、ワイヤーを補修した時に、ああ、ここももうすぐに切れるなでももう少し先だろうと思っていたところが切れていた、早速、今日はストーブの前で繋いでおいた。そう言えば今朝の散歩でボンのやつ一回も糞をしなかったなあ、ワイヤーが切れて敷地内を自由に歩いている時に思いっきりしたのだなあ、うっかり敷地内歩けないなあ。
 
 昨日までと違って暖かな日和になったので、薪を作った。もう寒さの時期は終わりかけているがそれでもまだまだ薪は必要である。

 ここのところ、たまたま図書館の新刊本の棚にあった関係で、幕末から明治初頭を扱った本を続けて読んでいるが、この本、川路利良を書いた「走狗」、面白かった。小生、語彙が貧弱なので、「面白かった」で済ます。食の評論家などはいろいろな表現方法を使って料理の美味さを伝えようとするが、本当はそんなものは必要ない、「美味かった」が総てを言い表わす、それで十分だろう、が如し。川路利良は日本の警察を作った人だということは知っていたが、当時の明治期に登場する歴史上の人物の中ではあまり光を充てられることは無かったような気がする、この本によると、あくまで「小説」だから虚構を含んでいるのだろうが当時の錚々たる登場人物の中でそういった人たちを結びつける極めて重要な役割を演じたのだということが分かった、「面白かった」。

 日記を書きながらフト目についたネット記事から。「長ぐつ男」、本当に馬鹿なやつだ、あの時(おんぶさせてわたった時)、こんなヤツはさっさと辞めろと書いたことを覚えているが、やっぱり根本的に馬鹿なヤツだった。朴槿恵さん罷免されたなあ、あの国とは「君子の交わり」でいくべきだと常々思っている、淡きこと水の如くね、歴史を学べば分かる、絶対に上手くいきっこない、これは正しい歴史認識をした上で言っている。

 それより、今、大阪の森ナントカ学園という学校の許認可問題が一部で騒がれている、そこで、教育勅語を教えているからケシカランという論調が目についた、森ナントカ学園の許認可問題と教育勅語とは別だろう切り離して論じてくれよ。

 「教育勅語」を批判する人は、実際に読んだことがあるのか、小生は完全に暗誦すらできるぞ、一体これのどこが悪いというのだ、どこが軍国主義なのだ、日本人の基本的な徳目だろう、東京裁判史観、自虐史観でしか日本を見ない反日ごっこ、左翼ごっこをしている人たちよ評論家たちよマスゴミよ、あたたたちは一体どこに行きたいと言うのか。学校で反日教師が反日的教育や張り紙や配り物の活動をしても問題視しないマスゴミよ、教育勅語のどこが悪いのか。

 以前にも書いたことがあるかもしれない、教育勅語の起草については天皇側近の儒学者である元田永孚が深く関わっている、元田は熊本の人、横井小楠の高弟、そして明治天皇の侍講だった人だ、実は小生の曽祖父はその門下生で、教育勅語の起草作業に大きく関わっている、資料に当時曽祖父と元田の間で頻繁に書簡のやりとりがあり、曽祖父は書簡を読むと、記録を残さないように直ぐに燃やしていたという。小生はだから教育勅語に対しては特に思い入れが強いのだ。
 
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニコヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ演リニシテヘ育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シコ器ヲ成就シ進テ公uヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其コヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
                                 明治二十三年十月三十日
                                      御名御璽
 晩飯。ナスの豚バラ巻き、ポン酢仕立てと甘酢仕立ての二種類つくる。豆腐と油揚げの味噌汁。


平成29年 3月 9日(木)

 朝起きて窓の外を見ると昨夜降ったとみえて薄っすらと雪化粧をしていた。今日は少し太陽が出たが風が強くて昨日同様に寒い一日だった。(写真
       最低気温 -0.1℃ (03:03)、最高気温 7.9℃ (14:44)

 こんな日は、読書に限る、一日本を読んで過ごした。

 ここに移り住んだ当初は、見るもの聞くもの会う人、総てが珍しく新鮮なことばかりだったので、アチラコチラに出掛けては写真を撮って日記にしていたが、もう現在では完全に地元民になってしまっていて、地元でやるイベントも風景も日常になってしまって、それに、まだ行っていない所もたくさんあるが、東京人がいつでも昇れると東京タワーに行かないのと同じで、そのうちそのうちで、それに多分加齢のせいもあるのだろうと思うが、あまり外に出ることがなくなってそれにつれて毎日撮る写真も変化が無くなってしまった。それ自体が毎日の日記でもあるわけであるが、暖かくなったら家周りだけでなく少しは出歩いて少し変化のある暮らしをせんとイカンなあ。

 晩飯。クリームシチュー


平成29年 3月 8日(水)

  最低気温 -0.6℃ (05:48)、最高気温 4.2℃ (14:01)

 いやあ、今日は寒かったなあ、山の姿も真冬に逆戻りだ。時々雪も舞っていた。風が強かったこともあって、散歩のときなど手袋をしていても指先がかじかむほどだった、そろそろ薪が怪しくなってきたので、薪作りをしようかとも思ったが、寒いのでやめた。しばらく雨の予報も無さそうなので、もう少し暖かい日にやろう、と言う程度で、それほど切羽詰まっているわけではないからな。

 昼、プール、@1,000m×1。

 三ヶ月前の昨日、大腸癌で下行結腸リンパ節郭清をしたのだった、あっという間の3ヶ月だった、喉元過ぎれば・・・ずいぶん昔のような気がする、今はもう全く後遺感覚は無い。私も診てもらおうと、カミさんが今日、予約していた高野病院に大腸の内視鏡検査を受けに出掛けたので思い出した。そう思って日記を見ると、まだ入院記の清書(原稿は終わっているが)をしていなかった。

 今朝、5時40分の宮地駅発のバスで出かけることになっていたのに、小生を起こしに来たのが5時30分、何してたんだと言うと小生がいつも早起きするので、起こしてくれると思っていたと言う、バカタレ、小生、3時半ころ一度目が覚めたが、珍しくまた、寝ていた。取るものともとりあえず、寝間着姿で5分で駅まで走って、ようやくバスに滑り込む。
 
 カミさん、夜8時に「やまびこ」で宮地バス停留所に戻ってきたので迎えに行った。 あ、そうか、結果のほうだが、胃も腸も異常なしだったそうだ。

 晩飯。今日は別に考えていたメニューがあったが、寒かったので、寒い時には鍋に限るということで急遽鍋に変更した。


平成29年 3月 7日(火)

 曇り。夕方近くから一時横雪が降る。気温そのものはそれほど低かったわけではないが、風があったので、日中は非常に寒かった。
     最低気温 -1.1℃ (01:00)、最高気温 6.1℃ (15:18)
     最大風速 10.7 m/s (14:22)

 昼にプール。@1,100m×1。数え間違えて100m多かっただけで意図したものではない。

 夕方近く、ボンのワイヤーが切れているのに気がついた、ボンのやつは切れていてもそんなに遠くに行くわけではないが、人がいる時に切れてよかった。早速、つなごうと工具を持ってきて作業を始めたが、風が強くて冷たくてオマケに雪が降り始めて、なかなか接続作業がうまく行かずに震え上がった。そして、何も外でやることはないんだと気がついてストーブの前に移動して作業を終えた。
 
 太郎と風呂に行く頃には雪が横殴りに降っていたが、間もなく止んだ。

 ハムフェアで買ってきたジャンクの黒電話、子どもたち、掛けられないけど受けられるよと言って使わせたら、喜んでいた。娘にダイヤル電話って使った事あるか?と聞いたら、あるよ、公衆電話であったよ、と言っていた、公衆電話で今でもダイヤルのものがあるんだなあ。。我が家では固定電話は基本的には受け専門なので、発信できなくても別に困らないから、これでいくかと、置いておくことにした。
 
 晩飯。カキフライ。カミさんが明日健康診断で今晩は食事抜きなので、牡蠣がダメなカミさんのメシの心配がいらないので、遠慮なくカキフライにした。子どもたちはカキフライが大好きだ、カミさんも大好きだったが、ある年に突然アナフラキシーを起こして死ぬほど苦しんで、それ以来食べられなくなった。


平成29年 3月 6日(月)

 天気が良い、はずなのに全く視界が利かない、山が殆ど見えない、日差しが非常に弱い、やっぱりコヤツのせいだった
     最低気温 4.2℃ (05:27)、最高気温 10.3℃ (14:47)
     
 昨日行った西日本ハムフェアの会場、福岡県行橋市と書いた、実は間違いで、行橋市の北に隣接する京都郡苅田町(の日産自動車九州の体育館)が正解である。この「京都郡」は小生は昔福岡県に住んでいたので「みやこぐん」と読むのを知っていたが、縁のない人がこの文字を見ると、「きょうと」と読むのだろうなといつも思っている。昨日も車で走っていると立派な建物があって、そこに京都医師会という文字が目について、知っている小生ですら、一瞬どうしてここに「きょうと」の医師会が?「きょうと医師会」の保養所でもあるのかなと思ったくらいだ。また、苅田町は「かんだ」と読むのだが、小生の子供の頃は「かりた」と呼んでいたはずだがと長い間疑問に感じていた。小学生の頃、ここが実家の小学校の先生の家に夏休みに海水浴に行った記憶もある、まちがいなく「かりた」だったのに、いつ「かんだ」に変わったのだろうかとずっと思っていた。それがネット検索で分かった。
 
 やっぱり小生がちょうど子供の頃のその時期、国鉄苅田駅を「かりた」と呼称していた時期があったのだ。東京の神田駅と間違いやすくてそうしたようだが、その後、もとの「かんだ」に戻ったそうである、それでようやく長年の疑問が解決した。ついでにこの直ぐ近く(行橋市)に「新田原」という日豊線の駅がある。ここよりずっと南の宮崎県の自衛隊航空基地の新田原基地があるが、これは「にゅうたばる」と読むことは多くの人が知っているが、この福岡県の新田原駅から少し南にある築上町にも航空自衛隊築城基地(ついき)があるので、当然のごとくここも基地並びで「にゅうたばる」と読むのかと思っていたら、これは「しんでんばる」と読むのだそうだ、いやいや地名というのはなかなか難しい。

 その昨日のハムフェアーの小生の「お買い物」、DIさんたちは多分「球」なんかを買われたのだろう、小生はコレ、黒電話機とラジオ。ラジオは100円なり、on offのスイッチも付いていない、イヤホンジャックを挿すことでスイチが入るようになっているのだろう、AMだけだが立派に入る、これは非常用だな。それから黒電話、これは1K也。今の子はダイヤル式の電話機など全く知らないだろう、計算尺、タイガー計算器、クルタ計算機、5球スーパー、矢立などなどレトロで固めている小生の周辺、ヨシ!手元の電話をこの際、ダイヤル式にして、子どもたちを驚かしてやろうと思って買ってきたのだ。ところが忘れていた、我が家の回線はプッシュ回線だ、この電話機では掛かってきた電話には普通通り出ることはできるが、ジリ、ジリジリのダイヤルパルスでは発信が出来なかった、何か方法がないかなあ。
 
 ところであまり大きな声では言えないが、今日から少しダイエットを開始した。理由は、太郎の卒園式や入学式で、スーツを来なければならないシーンが出てくると思ったので、今朝、ちょっと思い立って着てみたがこれが全く入らない。腹回りが足りないのだ。大腸癌で腹を切って、その間色々な食事制限などがあって、けっこう良いようにスマートになったのに、回復した証拠を示そうと、結構積極的に間食も含めて食べてきたからなあ。
 
 小生としては別に今更スーツなんか着なくても、普段の作業スタイルでも構わないと思っているのだが、やはり世間体というものがあって、そうも行かないようだ。普段スーツは着ないので着られなくても特に困ることはなく、突発的な不祝儀の時には黒い礼服があり、このズボンの腹回りは相当調整が利くような構造になっているから困らない、だから、今回も礼服だと入るのだが、まさか卒園式、入学式程度で礼服を着るのもなんである。
 
 解決方法としては安いスーツをアオキや青山あたりで新調する手もあるが、これは如何にも馬鹿馬鹿しい、となると、昔の軍隊方式で体の方を今あるスーツに合わせればいい、ということで、スーツのズボンが入る程度に痩せることにしたわけである。サラリーマン時代のスーツがまだ何着もあるが、これらを着られる程度に腹回りを減らせばいいのである。
 
 小生はダイエットをするのは全く苦でない。ダイエットをする当事者になりきるのではなくて、ダイエットをする当事者を客観的に冷ややかに眺める自分を作るのである。腹が減ったなあと思った時に、当事者だと、ああ腹が減った、何か食いたい、と気持ちがそこに集中してしまうので、それを傍から、おお、腹が減ったオレがいるなあと一歩引いて眺めるとそこで食いたいという気持ちが抑えられるのである。小生が普段座っている座布団周りに、間食用の食い物が結構置いてあるが、今日それを全部処分した(娘にやった)。三食の食事の量もかなり減らした。因みに本日68キロ、2キロも減らせば大丈夫か、今回の減量は大したことない。
 
 晩飯。豆ご飯、鶏すき、ジャガイモとタマネギの味噌汁。お姉ちゃんはステーキ。昨日の朝、小生が大きなやつを半分焼いて食べた残りの半分、昼にでも食べようかと思っていたが早速カロリーオーバーになるのを避けるため娘に今晩食べるか?と訊いたら、ウン食べる、食べる、となった。太郎はいらんと言った、太郎はちょっとでも筋があるといつまでも延々とかみ続けてなかなか飲み込めない、安肉で固いのをしっているから、いらん、と言ったのだろう。我が家は松坂牛は買えないのだから、口の中で融けないときはちょっとくらい大きくても飲み込め、といつも言うのだがこれがどうしても苦手のようで、これからのことを考えると困ったことである。尤もお姉ちゃんも小さな時はその傾向があったが今ではガツガツ食べているので、心配はいらないのかもしれない。



平成29年 3月 5日(日)

 晴れ(娘撮影)。午後3時ころから雨、その雨も日が暮れる頃には回復方向に向かっていた。
      最低気温 -0.5℃ (06:32)、最高気温 11.8℃ (11:13)

 今年もJA6DI局とJA6MQY局と三人で西日本ハムフェアに行ってきた。小生はAPRSの軌跡を取るために軽トラックで二人の乗る車を追いかけた。会場は福岡県行橋市にある日産自動車の体育館。片道、我が家からちょうど150キロ。朝6時にDIさんのお宅に集合、MQY局の車と出発した。年によっては道路が真っ白に凍結していたこともあったが、今年の山越えは暖かかった(と言っても0度くらいだったが、寒い時期を経ての0度は暖かく感じる)。9時半ころ現地会場に着いて、昼ころにはもう会場を後にして帰路につき午後4時過ぎには家に戻ってきた。途中、山国川が日田から下って平野部を流れる中津郊外の川岸にはもう菜の花が咲いていた。
 
 APRSの電波は阿蘇谷では小生のI-Gateが引き受けて、向うでは現地のアンテナが拾っていたが、日田から阿蘇までの山間部はI-Gate局がないので軌跡は飛びがちで、拾ってくれたアンテナは遠く国東半島からさらに愛媛を経由してインターネット網に入っていた(写真)。
 
 今年は去年より一時間ほど早く着いたのにもう駐車場は満杯状態、弁当を予約しようと思ったら売り切れだった、去年より入場者が多かったようだ、減少の一途をたどるアマチュア無線人口も少しは回復しているのだろうか。ただ入場者が多かった割にはハムフェア自体の内容は毎年物足りなくなってきている気がする。三人共それは分かっているが、年に一度、出かけるというのが楽しいのである。交通量が多い場所ながら途中あまり食べるところが無くて、結局、帰る途中、ジョイフルで昼食を摂った。
 
 APRSのコーナーもだんだん小さくなっていた、APRSの「盛り下がり」、残念である。IES局も弟さんと来ていた。

 西日本ハムフェア行 連続写真

 予報では夜になって雨だと言っていたよう気がするが、いつものように予報より早く天気が崩れ始めて、日田を過ぎて阿蘇域に入ってくると車のウインドウにポツリポツリ雨粒が当たり始めて、杖立温泉を過ぎるころには間欠ワイパーでは追いつかない程の降り方になっていた。そして南小国を経て外輪の草原地帯に戻ってくると、阿蘇の大草原は見渡す限り野焼きの跡で真っ黒になっていた、今日は北外輪山一帯の野焼きの日だったのだ、ちょっと天気が心配だったが予定通り実施されたようである。ただ、乾燥具合が今ひとつだだったのだろうかかなり燃え残りがあり、また人手不足や地震の影響だろうか、まだ手付かずのところが随分とあった。(写真1写真2写真3写真4写真5
 
 野焼きは阿蘇丘陵の地層から絶対に欠かせないもので、千年以上の歴史がある。土がもろいために、野焼きをして草原状態で維持をしないと、放置してブッシュだらけになって雨で丘陵地帯が崩壊してしまうらしい。畜産が盛んだった昔は、放牧で牛馬が草を喰んで、また畜産、農業従事者も多く草原の維持ができたが、近年は畜産業などの衰退で野焼きそのものの継続が難しくなっている。小生は、都会では絶対にできない、そして都会が羨ましがる草原の活用法が絶対にあると思うのだが。
 
 小生の留守中、野焼きから避難してきたのだろう、我が家の畑にキジが来たと、娘が苦労して写真を撮った。少机の上に、脚立を置いて、その上にクズカゴ乗せて、さらにその上に箱を置いて双眼鏡をセットしたようだ。そして、倍率の低いカメラを双眼鏡の接眼レンズにくっつけて望遠レンズ状態してキジの写真を撮ったそうだ、なかなか考えたものだ、その代わり何十枚も撮ってあった。(写真1写真2写真3写真4

 この村でも今日の野焼きの後は村の公民館で慰労会と、牛馬を祀る鞍岳祭が同時に行われたと思うが、小生はもう数年前に野焼きの手伝いはお役御免になっており、更に牧野組合員でもなければ、ましてや有畜農家でもなく、我が家はこの行事とは全く無縁なので今年から参加をしないことにした。

 「居眠り磐音」の新シリーズ、空也十番勝負「声なき蝉」上下巻、一気に読み終えた。前のシリーズで満腹したつもりだったが、満腹も時が経てばまた空腹になる。いままでの中で一番面白かった・・・・かな。特に舞台が日向・薩摩・肥後の国境付近だから、ということもある、だからじっちゃいだともっと面白かもしれない、馴染みの地名ばかりだと思う、馴染みの地理ばかりだと思う。小生は時々Googleの衛星写真で確認しながら読んだ。尤もこれは話がしっかりと今までのシリーズとつながっているからで、いきなり新しいシリーズを読んでも面白さ半減だろう。寺さんは図書館で48人待ちだそうだが、宮崎の図書館は何人待ちだろうか、じっちゃい、この際、買って読んだほうがいいな、図書館で新刊本を借りるのなら阿蘇に住むに限る。


平成29年 3月 4日(土)

 今日も穏やかな天気だった。どんどん気温が上がってきている、日照時間も急に伸びた感じがする。ハチが猛烈に元気がいい、活動がどんどん活発になっている。
       最低気温 0.1℃ (07:07)、最高気温 12.6℃ (16:16)

 明日は北外輪山一帯の野焼きだ、ちょっと天気が心配だが、やるだろう、小生は西日本ハムフェア−があるので朝暗いうちから福岡県に出かけるから、帰ってきた時には阿蘇の外輪のススキ野原は真っ黒になっているだろう。

 最近ボンのやつ、立っている時に後ろ脚がブルブル震えることが多い、犬にもパーキンソン病があるだろうかとネットで調べたらどうも、神経伝達障害によって起こると推測されていて「特発性振戦病」と言うらしい。老犬に起こりやすいようでこれといった治療の方法は無いようだ、別に苦痛を感じている風でもなく、動き回る時には相変わらず力があるのでこのまま過ごすしか無いだろう。

 娘が先日交通事故的に英検3級に合格したが、英検3級は中学卒業程度のレベルだそうだから交通事故と言ってもそれほどのことはない。ところが、こちら、五歳の男の子が英検2級に合格した記事が載っていた。その子の兄も五歳の時に2級を取ったそうだから、これはもう交通事故ではないだろう、海外生活経験無しだそうだがどういう教育方法を取っているのだろうか。両親が英語を使う環境にあるのだろうか。日本語と並行して上達していくといいね。

 夕方、久しぶりに、我が家の三人組はピアノのレッスンで泗水に出かけていった。


平成29年 3月 3日(金) 桃の節句

 晴れ。素晴らしくいい天気になった。今日だけに限ると完全に春の陽気だった。(写真1写真2写真3
    最低気温 2.8℃ (06:24)、最高気温 11.1℃ (15:47)
 
 昨夜久しぶりに有感地震があった、午前0時前で、寝ていて揺れて目が覚めた、珍しくJアラートがなったので携帯を見たところ、隣の高森町のアラートで、高森町では深度4を感じたようだ、震源は日向灘だそうで、ここは記録では一応3となっていたが少ししか揺れなかった、一夜明けて娘に気がついたかと尋ねたら、ゼンゼ〜ンと言っていた、そうだよな、あいつは熊本地震の震度5強の時でさえ気が付かずに寝ていたくらいだからな。地震の揺れ、今まで経験した大きな揺れまでは大丈夫だなと言う妙な安心感があるので、少々揺れたくらいでは慌てなくなった、そういう意味では家が壊れるほどの揺れはゴメンだが、一度経験しておくとその後が無用な心配をしなくて済むようになる。もう小生が生きている間にはあんな熊本地震のような地震は無いものと思っている(・・・南海トラフの時は果たしてどうだろうか)。

 ハチウトの内検をする、珍しく早めに砂糖水が無くなっていた、例によってフタを開けるとドッと塊になって飛び出してきて目の前を飛び回る。これが春になって活動期に入ると、巣を開けて、傾けて中を見ても全く無関心で飛び立つこともない。今の時期はまだそのような余裕のある季節になっていないのだろう、それでも一時期に比べてハチの数が増えているような気がする、砂糖水の消費が多いのもそのせいかもしれない。同じハチでもスズメバチなどは女王蜂一匹を残して他は全滅するのに、ミツバチは女王蜂を中心にして数こそ減ってもちゃんと働き蜂も集団で生き延びる、面白ものである。
 
 コイン精米機で玄米30キロを精米する、今年で何袋目だろう。
 
 犬のウンチ袋が届いた。ここでは、全市と言う意味ではなくて、我が家周辺という意味だが、「自然」と「人口」のバランスが取れていて(取れすぎていて)、勿論いけないことだが、犬の糞は自然に任せても特に問題がない、ということで長い間、その自然に任せていたが、やはり感心すべきことではないだろうと思って、散歩をしながら糞を回収することにした。市の防災無線でも時々犬の糞の回収について注意放送がある、実際には市街地や住宅密集地では問題があるがここではハッキリ言って無い、それに、犬によっては道路の真ん中で用を足す犬もいるが我が家のボンはマナーを心得ていて?迷惑がかからないように道路の端っこの方に、もし、溝があればそれを跨ぐようにさえして用を足す、でも草むらなんかにした場合、時々野作業で踏んづけたりするし、子どもが被害に遭うといけないので、やはり回収することにした。
 
 そこでどうやって回収するかだ。小生が入院している間、カミさんの父親がボンの散歩を引き受けてくれたが、義父は大都会の住民なので、ボンの散歩の時には必ず小さなシャベルとレジ袋をぶら下げて行っていた。その時に回収した糞はどう処理したのだろうか訊かなかった。ただ、レジ袋だとマルチと同じでいつまでも残るので、やはり生分解の袋が無いだろうかと思って、ネットで検索して取り寄せた、これが当然国内ショップだと思っていたら、今日Chinaから国際貨物で届いた、一瞬なんだろうと思ったら、注文したウンチ袋が入っていた。通関で袋を破った形跡がなかったが怪しまなかったのだろうか、100枚入りで送料込みで1,215円、まさかこれが海外からはるばるやって来ようとは。
 
 この袋に回収した糞は穴でも掘っておいて袋ごと投げ入れたらそのうちに自然分解するだろう。調べたら、牛馬の糞と違って犬の食い物には動物性の物が入っているせいで分解するのに結構時間がかかるらしい。それでも生分解する袋なので放っておけばそのうちに自然に無くなるだろう。普通のレジ袋なんかで回収した場合、一般的にどうしているのだろうか。中には生ごみとして出すようなことも書いってあったが。そうだな、生分解の袋でもあるし、浄化槽の一次槽に投げ込んでもいいのではないだろうか。

 今日はひな祭りだ。賄い方としては頭を絞って、ひな祭り仕様の夕食にした。ちらし寿司(五目寿司)にした。普通これに刺し身などを入れるが、刺し身に代えてウナギや穴子を細かく切って混ぜると美味しい、意外と皆知らない。それから、ハマグリの吸い物を作った。ハマグリは固くならないように、ハマグリだけ最初さっと火を通して別にしておいて汁を作って美味しく調理したのに子どもたちはこういったオツな味が分からない、娘はアサリの方が好き、と言いながらも食べた。太郎は、美味しくないと言ってほとんど残した、オマケにこの緑の野菜も要らんと折角入れたミツバまで残しやがった。そうかじゃあお父さんが食べてあげようかと言って、それに、カミさんも牡蠣がダメだから、同じ貝類を敬遠して多分食べないだろうと勝手に決め込んで小生が頂戴した。デザートにひな祭り用のケーキなど。
 
 そう言えば我が家は娘がもうだいぶん前から興味が無いようで雛飾りを飾らなくなったなあ。その代わりに太郎が先日作った雛飾りが壁に貼ってある



平成29年 3月 2日(木)

 時々雨が降ったり霰が降ったり、雹もどきが降ったりと終日落ち着かない空模様だった、それも夕方になってようやく青空が覗いていた。
     最低気温 2.3℃ (00:19)、最高気温 6.8℃ (14:45)

 中途半端に寒さが一番良くない、どうもなんとなく風邪気味だなあ。

 太郎を保育園に送った帰りに床屋に行った。松岡さんに「あけましておめでとう」と新年の挨拶したところ、ちゃんと返してくれた。今年初めてである、それどころか、昨年11月20日に入院に備えて散髪して以来だから、三ヶ月以上ぶりである。もうなりふりを構う必要が無い生活なのでこんなものだろう。
 
 なんとなんと、夏子が英検3級に合格してしまったそうだ、まさに「してしまった」だ、2次試験でダメだったと言っていたのにあの程度で合格するのか、これはインチキだろう、英検の権威が無くなるだろう、三級ってこの程度なのか、それなら小生は2級くらい合格しそうだなあ。

 なんだなんだユースホステルまで閉鎖したのか。50年ほど前、小生が貧乏学生の頃はユースホステルはありがたい施設だった、今の人はもう利用しないのかなあ、海外からやってくるバックパッカーは利用しないのかなあ。仙酔峡ロープウェイや「いこいの村」やそのほかにも色々な施設が閉鎖されている。確かに箱物は無くせば維持費は掛からないよなあ、でも、それだと入るものも入らなくなるなあ、経済用語で言うと縮小再生産だねえ。
 落語にあったなあ、「ある大店の主は、十人の使用人を雇っていたが、節約のために五人に減らす。それでも仕事に余裕があるので、その五人にもヒマを出し夫婦だけで商いを続ける。主は自分ひとりでも仕事が間に合う、というので妻まで離縁し、最後には自分自身もいらないな、と自殺してしまう」・・・・世界に冠たる自然遺産を持っていながら経営者が居ないんだねえ。
 
 晩飯。きじ焼き丼


平成29年 3月 1日(水)

 予報では今日一日は晴れとなっていたが、朝から雲がかかっていてとても晴れという天気では無さそうなので、万一雨になるといけないと思って朝のうちに昨日作った薪を取り込んでおいた。そして心配したように昼を過ぎたあたりから細かな霧のよう雨が降り始めた。でもその雨は間もなく上がって夕方までまあまあの天気が続いた。
    最低気温 -1.9℃ (06:59)、最高気温 9.8℃ (15:18)

 夏子は修学旅行の振替休日で休み、友達から電話があって遊びに行った。
 
 今日は太郎の保育園、お別れ遠足で出かけた。毎年、熊本市の動植物園に行っているが、熊本地震の被害が大きくて殆どの部分が休園のため、今年は阿蘇市内の遠足旅行になった。阿蘇神社にお参りして、消防署を見学して、猿回し劇場の観覧がコースになっていて、観光バスで出掛けていった。阿蘇市内だから、時間を持て余すかなと思って夕方迎えに行ったところ、午後4時ころまでみっちりと楽しんだそうで、満足して帰ってきた。猿回し劇場は、一時、カドリードミニオンでパン君というチンパンジーが全国的に有名になったことがあるが、その影で、マイナーな猿回し劇場ではニホンザルが外国猿に敗けずと頑張っていたわけで、パン君引退後の今、改めてその存在感を示しているということだ。

 図書館に本を返しに行ったところ、新刊本の棚に佐伯泰英「声なき蝉」があったので借りてきた。この本は「居眠り磐音」シリーズが完結して、その続編というのか、磐音の息子の坂崎空也を主人公にした新シリーズである。居眠り磐音がとにかく長いシリーズで最後は満腹満腹という感じで読み終えたので、新しいシリーズは正直買ってまでは読むことは無いだろうと思っていた。もっとも「買ってまで」と言っても、小生が買ったわけではなくて、全シリーズを寺さんが何年も書い続けて、読み終わったそれをはるばる茅ヶ崎から小生に送ってもらって、さらに、それが宮崎のじっちゃいに回って(、さらにもう一箇所回っているが、その本どうなったろう)と沢山の人が楽しませてもらったわけであるが、さすが寺さんももう買うまいと思ったので今日借りてきた。そんなわけで、新しいシリーズがじっちゃいのところに回ることも無くなったわけであるが、ところが今度のシリーズは鹿児島宮崎が(この先どうなるかわからないが)舞台になっているらしい、そうなるとじっちゃいとしても気になるところだろうが、それは、小生が読んでからレポートをすることにしよう。
 
 所得税の確定申告がまだだった。今日申請をしようと思って源泉徴収票などを探したが、整理が悪くて、見つけるのに半日以上かかった。
 最近はe-taxの申告は昔に比べて格段の進歩をして入力しやすくなったが、まだまだ不親切である。申告書自体は直ぐに出来たが、イザ送信しようとするも、送信画面にどうしても切り替わらない、そこで大分時間を無駄にした、要は、IEでなければ、送信のための画面が表示されないのだ、それならそうと、Q&Aコーナーを探さなくても、webブラウザーはIEをお使いくださいと画面に表示するようにすればいいのに、ウンともスンとも画面は言わない、小生はchromeを使っているのでそれに気がつくのにエライ時間がかかった。それから、それがようやく解決したと思ったら、今度はどうしてもデーターを送信することが出来ない、ドライバーを入れ直したりなんだかんだで結局半日無駄にしてしまった。とにかくユーザーインターフェースがまだまだだな。
 
 申告後、参考に去年の申告書と比較したら、どうも、返戻金が今年のほうが多い、基本的に変わっていないと思って、よく調べたら、昨年の申告で国民健康保険税の納付金額をそっくり落としていた、最近、住民税や国民健康保険税まで特別徴収になって、普通徴収に比べるとうんと楽になったが、去年は、うっかり、源泉徴収票の社会保険料控除が介護保険料だけで国民健康保険税は普通徴収だったのを見落としてしまった。とういことで、そっくり申告漏れなので修正申告をすると過誤納付分が戻ってくることになる、確か時効は三年だったはずだ(二年だったか)、落ち着いたら修正申告をして戻してもらおうか。でもこのままでは住民税までは戻ってこないのだろう。
 
 また大腸癌の入院手術費用が多分10万円を超えて、医療費控除が受けられるなと当初思っていたところ、世界に冠たる福祉国家日本、あれだけの入院でもとても10万円には届かない安価な費用で済んでしまったので、残念と思っていたら、10万円のラインは高給取りの場合で小生のような低所得者の場合は、10万円行かなくても控除が受けられるということが分かって張り切って申請したが、結局数百円の所得控除にしかならず、申告してもしなくても変わりがなかったということだ、これが税額控除でも数百円にしかならないのだから。

 申告書を送信し終わって、ふとモニターを見ると、もう午後4時なのに、ハチがいやに乱舞している、行ってみると、普段の時騒ぎより大掛かりで空にも飛んでいる、この時期に、まさかと思って様子を見ていると間もなく収まった、まだ時期が早いが、飛んでいた時間といい何があったのだろうか、春になって新兵さんが沢山誕生してその影響の訓練が行われていたのだろうか。ドキドキした。

 太郎と風呂に行くと必ず太郎は体重計に乗る。ここのところ、ずっと20.6あたりを行ったり来たりして、なかなか増えないねえと言っていたが、今日、21.0キロを記録した、「太郎、うんこの分だろう」と言ったところ、「今朝ちゃんとしたバイ」と言っていた、ようやく大台に乗った。アゼリアには体重計はあるが身長計が無いので身長が分からない。

 晩飯。チャーハン、ポトフの残りをスープに
 
 

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